帯を解いた、その後の問題
2003年2月4日 さて、先日の和服日記の続きを、ちょっと書いてみることにしよう。
恐らく、私の着方は、邪道の部類に入るであろう。殊に、優雅さの追求という点においては。
着付け教室に通っているわけでもなく、本を見ながら自己流に着ているのだが、どうやら、原因はそれだけではなさそうだ。
まず、眼鏡を掛けていることが多い。(何らかの視力矯正器具は必需品)
そして、カチューシャをしていることもある。(前髪が邪魔だから)
更に今の季節、外では手袋もしている。(寒いから。「お洒落は我慢よ!」という考え方は、更々無い)
おまけに、腕時計もしている。(時間がすぐ分かって便利だから)
実用第一である。
(ついでに言うと、顔は化粧をあまり念入りに施してはいない。和服姿の時には、いつもよりも濃い目に化粧するのが、綺麗に見せるコツ、とのことだが…。今はそこまで手が回らないのだ。)
知人からは、
「大正ロマンっぽくて、それもまた、いいんじゃないの?」
という苦し紛れのフォロー、もとい、好意的な感想も得られたが、その後、こうも言われた。
「なんか、あんたの格好、書生さんみたい」
し、書生?
…それはもしや、色気とは対極にある格好、ということですか…?
確かに、布地ひとつをとってみても、私が着ているのは、染めではなく織りのもの(時にはウールのことも)だから、生地の質感自体、柔らかというよりはしゃきっとした感じのものなんだけど。(私は、そういうものが好みなのだ。)
でも、
「元から色っぽい人は、戦時中のもんぺ姿でも、やはり色気を漂わせていた」
という話を聞いたことがある。だから、服の素材の持ち味というよりは、着る者の資質によるものかもしれない。
…ううう。
やはり、洋服で無理なものが、和服で実現出来るわけがないようである。この度、それを思い知らされた。<大袈裟
それより、そもそも、昔、書生をしている女の人って、いたのだろうか?(現代では、女性に限らず、書生という存在自体がいなくなっているだろうから。)少なくとも、私は聞いたことが無いけど。書生といえば、男の人を思い浮かべる。
だが、それはさておくとしても、私って、花より団子というか、色気より実用のほうが勝ってしまうんだなぁ…と改めて感じさせられてしまった。
だって、だって、寒いんやもーん!
あ、そうそう。実を言うと、この季節、胴の部分には、保温と補整を兼ねてバスタオルを巻いている。
おまけに腰には、使い捨ての貼るカイロまでも仕込んでいる。
ついでに言うと、足袋の下には、タビックス(*)をしっかりと穿き込んでいる。
…伊達の薄着、という言葉は、私の思考回路とは無縁である。
(*)タビックス:足袋とソックスの合体版。要するに、先割れ靴下。穿いた姿は、まるで家畜の蹄のようである。
ちなみにこのタビックス、『無印良女』(群ようこ著/確か角川文庫)にも登場する。あのタビックスのアヤコ、私は大好きです。天真爛漫で憎めない豪傑っぷりが。
しかし、ふと思ったのだが。
もしもこの先、
憎からず思う人(が居たとして<あくまで仮定)の前で、
帯を解く場面が訪れたとしても…(現実よりも想像が、一足どころか遥か先まで駆け巡るのは、私のいつもの悪い癖である(苦笑))、
そこに現れたのが、バスタオルぐるぐる巻きの胴体やカイロをぺたぺた貼りつけた腰だったら、
笑われてしまいそうじゃないか?
雰囲気ぶち壊しになってしまわないか?
…どうしたらいいんだろう?
以前、着物雑誌に、
「便利帯(お太鼓の部分を分離させた、二部式の作り帯。予め結んだ形が出来あがっているので手間要らず。)だと、男の人の前で脱げないのが困りもの」
という意見が載せられていたが、これはそれよりも遥かに深刻な問題である。胴体バスタオル巻きの状態で色気を感じさせるのは至難の技だと、私には思える。
色気と実用の両立の道は、あり得ないのか?
などと、独りで取越苦労をしている私であった。
こんな私に救いの手(=解決策)を、是非。
恐らく、私の着方は、邪道の部類に入るであろう。殊に、優雅さの追求という点においては。
着付け教室に通っているわけでもなく、本を見ながら自己流に着ているのだが、どうやら、原因はそれだけではなさそうだ。
まず、眼鏡を掛けていることが多い。(何らかの視力矯正器具は必需品)
そして、カチューシャをしていることもある。(前髪が邪魔だから)
更に今の季節、外では手袋もしている。(寒いから。「お洒落は我慢よ!」という考え方は、更々無い)
おまけに、腕時計もしている。(時間がすぐ分かって便利だから)
実用第一である。
(ついでに言うと、顔は化粧をあまり念入りに施してはいない。和服姿の時には、いつもよりも濃い目に化粧するのが、綺麗に見せるコツ、とのことだが…。今はそこまで手が回らないのだ。)
知人からは、
「大正ロマンっぽくて、それもまた、いいんじゃないの?」
という苦し紛れのフォロー、もとい、好意的な感想も得られたが、その後、こうも言われた。
「なんか、あんたの格好、書生さんみたい」
し、書生?
…それはもしや、色気とは対極にある格好、ということですか…?
確かに、布地ひとつをとってみても、私が着ているのは、染めではなく織りのもの(時にはウールのことも)だから、生地の質感自体、柔らかというよりはしゃきっとした感じのものなんだけど。(私は、そういうものが好みなのだ。)
でも、
「元から色っぽい人は、戦時中のもんぺ姿でも、やはり色気を漂わせていた」
という話を聞いたことがある。だから、服の素材の持ち味というよりは、着る者の資質によるものかもしれない。
…ううう。
やはり、洋服で無理なものが、和服で実現出来るわけがないようである。この度、それを思い知らされた。<大袈裟
それより、そもそも、昔、書生をしている女の人って、いたのだろうか?(現代では、女性に限らず、書生という存在自体がいなくなっているだろうから。)少なくとも、私は聞いたことが無いけど。書生といえば、男の人を思い浮かべる。
だが、それはさておくとしても、私って、花より団子というか、色気より実用のほうが勝ってしまうんだなぁ…と改めて感じさせられてしまった。
だって、だって、寒いんやもーん!
あ、そうそう。実を言うと、この季節、胴の部分には、保温と補整を兼ねてバスタオルを巻いている。
おまけに腰には、使い捨ての貼るカイロまでも仕込んでいる。
ついでに言うと、足袋の下には、タビックス(*)をしっかりと穿き込んでいる。
…伊達の薄着、という言葉は、私の思考回路とは無縁である。
(*)タビックス:足袋とソックスの合体版。要するに、先割れ靴下。穿いた姿は、まるで家畜の蹄のようである。
ちなみにこのタビックス、『無印良女』(群ようこ著/確か角川文庫)にも登場する。あのタビックスのアヤコ、私は大好きです。天真爛漫で憎めない豪傑っぷりが。
しかし、ふと思ったのだが。
もしもこの先、
憎からず思う人(が居たとして<あくまで仮定)の前で、
帯を解く場面が訪れたとしても…(現実よりも想像が、一足どころか遥か先まで駆け巡るのは、私のいつもの悪い癖である(苦笑))、
そこに現れたのが、バスタオルぐるぐる巻きの胴体やカイロをぺたぺた貼りつけた腰だったら、
笑われてしまいそうじゃないか?
雰囲気ぶち壊しになってしまわないか?
…どうしたらいいんだろう?
以前、着物雑誌に、
「便利帯(お太鼓の部分を分離させた、二部式の作り帯。予め結んだ形が出来あがっているので手間要らず。)だと、男の人の前で脱げないのが困りもの」
という意見が載せられていたが、これはそれよりも遥かに深刻な問題である。胴体バスタオル巻きの状態で色気を感じさせるのは至難の技だと、私には思える。
色気と実用の両立の道は、あり得ないのか?
などと、独りで取越苦労をしている私であった。
こんな私に救いの手(=解決策)を、是非。
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