ISBN:4163243402 単行本 姫野 カオルコ 文藝春秋 2005/10/14 ¥1,995
特に印象に残ったのが、物語の終盤にある、
「よかった、あの人は神様に見落とされなかった」
という、友人について言及した主人公の感想である。
よく、
「善行を積んだから、よいことが起こった」
という物言いをする人がいる。
『報われて幸せを得る』という図式は、願望としてはわからなくもない。
心の中だけで思うならば、勝手にすればよいことだ。
だが、実際は違う。
これといって悪いことをしていない人に、とんでもない不幸が降りかかることもあるし、一方、罰を免れた凶悪犯がのうのうと生き延びている、かもしれない。それが現実。
因果の収支が、一致していない。
犯罪被害者やその周囲の人が更に痛めつけられてしまうのは、例えば、事情聴取などの場で発せられる、
「あなたにも、非(思い当たるふし)があるのでは?」
という、傷口に塩を塗りこむような心無い言葉。
落ち度論の暴力、それによって生じる二次的な被害。
あるいは、
「(私は)徳があるから、救われた」
という物言いの、なんと傲慢なことか。
助かったのはたまたまであって、日頃の行いのおかげではないのに。
それにそもそも、本当に徳のある(…とまではゆかなくても、最低限の心ある)人ならば、少なくとも、そんな言い方はしないと思うけど。
他愛の無い軽口(それも、親しき仲のご愛嬌として成立するもの)ならばまだしも、深刻な場面では避けるべきだろうに。
『見落とされなかった』という言葉には、そういう思い上がりが無い。
「あの人は行いが正しかった。なおかつ、運にも恵まれた」
と、プラスの側面から物事を見ている。マイナスの側面からではなく。
人智を超えた「時の運」の作用を認識した、的確な一言。
これ見よがしではない、他者への自然な思い遣りが滲み出た台詞。
そこからは、彼女の(そして、作者の)眼差しの温かさがうかがえる。
そういう優しさと賢さを持つ人に、いつかなりたいな…。
でも、「神様の帳尻合わせはいつだろう」なんてつい考えてしまうような私には、まだまだ無理かなぁ。
内容(「BOOK」データベースより)
滋賀県に生まれた持丸遙は女子師範学校を経て、見合い結婚で専業主婦になったが、夫はまもなく出征。太平洋戦争が勃発し、舅姑と大阪で暮らす。やがて敗戦を迎え、経済的理由から職業婦人となったことから、ハルカは女性として開花してゆく―。
特に印象に残ったのが、物語の終盤にある、
「よかった、あの人は神様に見落とされなかった」
という、友人について言及した主人公の感想である。
よく、
「善行を積んだから、よいことが起こった」
という物言いをする人がいる。
『報われて幸せを得る』という図式は、願望としてはわからなくもない。
心の中だけで思うならば、勝手にすればよいことだ。
だが、実際は違う。
これといって悪いことをしていない人に、とんでもない不幸が降りかかることもあるし、一方、罰を免れた凶悪犯がのうのうと生き延びている、かもしれない。それが現実。
因果の収支が、一致していない。
犯罪被害者やその周囲の人が更に痛めつけられてしまうのは、例えば、事情聴取などの場で発せられる、
「あなたにも、非(思い当たるふし)があるのでは?」
という、傷口に塩を塗りこむような心無い言葉。
落ち度論の暴力、それによって生じる二次的な被害。
あるいは、
「(私は)徳があるから、救われた」
という物言いの、なんと傲慢なことか。
助かったのはたまたまであって、日頃の行いのおかげではないのに。
それにそもそも、本当に徳のある(…とまではゆかなくても、最低限の心ある)人ならば、少なくとも、そんな言い方はしないと思うけど。
他愛の無い軽口(それも、親しき仲のご愛嬌として成立するもの)ならばまだしも、深刻な場面では避けるべきだろうに。
『見落とされなかった』という言葉には、そういう思い上がりが無い。
「あの人は行いが正しかった。なおかつ、運にも恵まれた」
と、プラスの側面から物事を見ている。マイナスの側面からではなく。
人智を超えた「時の運」の作用を認識した、的確な一言。
これ見よがしではない、他者への自然な思い遣りが滲み出た台詞。
そこからは、彼女の(そして、作者の)眼差しの温かさがうかがえる。
そういう優しさと賢さを持つ人に、いつかなりたいな…。
でも、「神様の帳尻合わせはいつだろう」なんてつい考えてしまうような私には、まだまだ無理かなぁ。
ISBN:4620316180 単行本 佐藤 雅彦 毎日新聞社 2003/03 ¥1,365
内容(本の帯より)
佐藤雅彦が毎日新聞で4年にわたり連載した、大人気の月1(つきいち)コラム、その名も「毎月新聞」。その月々に感じた事を、独特のまなざしと分析で記す佐藤雅彦的世の中考察。ともすると見過ごしがちな日々の不可思議や本質を、ハッと気づかせてくれたりする、面白くも鋭い名文の数々。人気の3コマまんが「ケロパキ」の未発表作品つき。
『「じゃないですか」禁止論』に始まり『日本のスイッチ』に終わる、50号ほどのコラム。
短篇なので、当たり前だが読むのに時間が掛かるわけでもないし(ただ、読後に内容を頭の中でぐにゃぐにゃと捏ねるのもありだから、長く楽しむことも出来る)、どのページから読んでもいい。細切れの時間に適した活字を何か…、という人にもお勧め。
『ブーム断固反対』『文字が出す騒音』『ネーミングの功罪』『かもしれないグッズ』『取り返しがつかない』などなど、興味深い内容が色々と。
しかし、今の私にとって最も印象的で、そして「なるほど、そうだよなぁ」と感じたのは、
『目の前にあるのに』
と題された文章である。
そこから少々引用すると、
「自分が思い込んでいる探索像が目の前に実際見えている知覚像を消す、ということ」
「自分の肉眼で見えていることよりも、求めているイメージの方が勝ってしまう」
ということらしい。
「ちょっと専門的に言うと、『探索像が現実に知覚している像を歪める』ということ」
とも書いてあった。
* * * * * * *
実は、前回の美術館デートの際、私を見つけやすいようにと思って、道中に着ていた服を携帯のカメラで撮って相手に送信したのである。
但し、部分的なもの。布地の柄がわかれば十分だと考えたから。
けれど、待ち合わせ場所にいた私に、彼は初め気付かなかったらしい。
というのも、私は和服姿だったからである。
いやー、空模様が少し怪しかったものの、折角の機会だから。
ちょっとは驚いてもらえればいいかなー、なんて変な意欲(?)を出しちゃってさ。
えぇ、そんなことしてたんですよ私…。
うーむ、メールに記したのは事実のみであって、決して嘘は交えていなかったんだけどなー。
(「今日の服の柄の画像を…」という文面だった。)
誰も、洋服とは書いていませんよーだ。へへーんだ。 ←お前は子供か…
届いた画像を見て彼は、
「変わった柄だなぁ」
と思ったそうな。幾何学模様とはいえ、確かに洋服ではあまり見掛けない模様である。
草花などの具象柄ならば、さすがに不思議がられ、着物だと一発で見抜かれていたかもしれないけれど、今回のは微妙だったからねぇ(笑)。
ま、一瞬の後に、そこにいる人物が私だとわかったみたいだけどね。
この回ばかりは、ワタクシの寛大な心(どこがじゃ)で許してあげよう。
それに、次はちゃんと見つけてもらえたしね♪
(その時は、洋服で行きましたが(笑))
平成よっぱらい研究所
2004年12月25日 読書ISBN:4396761554 コミック 二ノ宮 知子 祥伝社 1996/09 ¥920
出版社/著者からの内容紹介
所長と出会ったその日から、酒の奴隷になりましたっ!!所長とは、何を隠そう著者・二ノ宮知子、その人である。ここだけの話だが、このマンガは恐ろしいことに100%ぜんぶ実話なのである。全国5000万人のよっぱらいファンが泣いて喜ぶ珠玉のドキュメンタリーである、なんちて。
一緒に過ごした彼女曰く。
この日(24日夜)の私の酔い方は、派手ではないが実に朗らかで楽しそう。
傍目には、割とまともな振舞。記憶をなくす状態には見えない。(それはある意味、却って怖いのでは…?)
立ち寄ったコンビニで、タイツ購入。
「60デニールがあるよ!」
と嬉しそうに言っていたらしいが、これも覚えが無い…。(いや、なくした記憶は、ほんの一部分なんですよー!)
財布に収められたレシートを見て、
「(当然だが)万引じゃなくてよかった」
と思った。
貴重品を紛失したり、無意識のうちに電話やメールをしたり、小間物屋を広げたり、はたまた暴れて醜態を晒したり、などの迷惑な酔い方はしていなかった模様。本当によかった…(履歴や鞄を確認して、ほっと胸を撫で下ろした)。
ま、そこまで自分自身が制御不能ではなかったということか。
「よく回ったのは、疲れとストレスと嬉しい出来事とが重なったからじゃないの」
と彼女はフォローしてくれたが…(事実、量的には、それほど飲んでいない)。うーむ。精神的な要素って、案外大きいのかなぁ。
しかし…、
「酔って記憶をなくす人なんて」
とは、もう言えないのかもしれない…。しょんぼり。
翌日は、彼女に連れられて朝の散歩。神社へと向かう。
いやぁ、早朝(私の時間の感覚では)のそぞろ歩きもいいものですな。クリスマスに
その足で、再びコンビニに。宿酔の薬を買う。朝の清々しい空気の中を歩きながら、茶色の小瓶を口に運ぶって図も、ちょっとなぁ…。
ちなみに、この日の朝食は粕汁でした。
「今のあなたには、ちょっとした拷問かもね〜」
という彼女。
…そうかもね〜。でも、結局しっかり平らげたけどね。
そして、
「気分転換に、読書でも」
と差し出されたのが、この本。
…薦めてくれるのはありがたいんだが、ちっとも気分は転換されないぞー。この時の私では、内容がいまいち頭の中に入ってこなかった。うぅ。
というわけで、また改めて、買って読んで書こうと思います。まぁそのうちに。
かく言う私は私で、手土産に酒粕飴(*)などを持参したのだった。およそクリスマスらしからぬプレゼントだな。
(*)別名「酒入りミルキー」。過去の日記にも登場。
そんな、静寂でも神聖でもなかったクリスマス。
正統派の過ごし方とは程遠いけれど、これはこれで、まぁいいか。
番茶も出花、と呼ばれる頃は過ぎても
2004年8月16日 読書
ISBN:4042695019 文庫 作山 宗久 角川書店 1996/06 ¥483
別に私は、そんな大した理想や情熱を持っていたわけではないけれど。
でも、少なくとも、加齢を闇雲に恐れることは無かったな。
だから、自分の若さ(身体面の)を振りかざして、年上の人を蔑むことも無かった。
そして、相手の未熟さや経験不足をあげつらって、年下の人を嘲ることも無かった。
それには多分、個人的な事情の影響もありそうだけど。
そんな、武器に出来るほどの魅力を持っているとは思えなかったし、それに、年齢の割に経験値(というか、達成度)が低めだ、という自覚もあるので。
(…ま、それらの条件を満たしていれば他者を見下す、とは限らないだろうけれどね。)
どちらかと言うと私の場合、実年齢と今挙げた「達成度(≒経験値)」とが釣り合っていない、ということのほうが、劣等感を抱くけど。
逆に言えば、釣り合いが取れていれば、それでよさそうだと思えるのだが、それは「持たざる者」の想像力の限界なのかな。
そりゃ私だって、歳を取ることへの恐れはあるよ。深刻な老化に見舞われてはいるわけではないながらも、多少はね。
けれども。
思ったからといって、何の考えも無くそのまま口に出すのは、問題だろう。
その物言いが、年上の者にとっては特に、どれほど傲慢に響くことか。たとえ冗談めかしたものだとしても。
それぐらいのこと、考えられないのか?
だからもういい加減、そんな言い方、やめてよ。
日本では幼形信仰にも似た考え方がまだまだ強いし、若ければ多少の失敗は大目に見てもらえる、若くさえあればちやほやされる、ということもあるだろう。それが現実。
でも、そんな傾向に迎合しているだけでは、恐らく事態は好転しないよ。
(話は多少脱線するが、ついでだから書いておこう。
私は、自分の歳に合わせて年齢基準をずらす人が嫌いだ。
自分が10代の頃には「ハタチ超えたらオバサン」と言い、20代になれば「30歳以降は…」、そして30代では「今の中高年ってまだまだ若いよね〜」、…というふうに。
少しずつ言うことを変えて、自分を「ぎりぎりセーフ」の線にじわじわと持っていこうとする、そのせこい根性が気に食わない、ということだ。それは、「いつまでも若々しくあろう」とする気構えとは、似て非なるものだと思う。
初めから一貫した主張を持つのは難しいけれど、上記のように極端な「若さ信仰」を謳うのならば、それなりの覚悟は決めておくべきだよね。その考え方によって遠からず自分が苦しくなる、ということぐらい、予見不可能ではないでしょう?)
ナマモノとしての瑞々しさ、その恩恵に浴することの出来る時期も、ほんの僅か。
その間に胡坐を掻いているだけで、後々痛い目を見ても、決して文句は言えまいに。
どうして、歳を重ねることが、そんなにまで嫌がられるのだろう。
そんな、お茶でもあるまいし、出涸らしになってしまうとは限らないでしょう?
心掛けと過ごし方次第なんていうのは綺麗事、そんなの書生論だよ…と言われるかもしれないね。
けれど、それでもいいじゃない。ただ過ぎ行く日々を嘆くよりは。
ISBN:4042695019 文庫 作山 宗久 角川書店 1996/06 ¥483
レビュー
出版社/著者からの内容紹介
「青春とは、ある期間ではなく、心の持ちかたを言う…。」温かな愛に満ち、生を讃えた彼の詩は、多くのトップビジネスマンに愛され続けたベストセラー詩集。(小川博之)
内容(「BOOK」データベースより)
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。困難の時代に生きた著者・ウルマンは、80歳という人生の頂に立ち、来たるべき死を自覚しながらもなお、理想を追うことの大切さを歌い続けた。温かな愛に満ち、生を讃えた彼の詩は、時代を超えて我々にさわやかな感動をもたらす。多くのトップビジネスマンに愛され続けたベストセラー詩集。
別に私は、そんな大した理想や情熱を持っていたわけではないけれど。
でも、少なくとも、加齢を闇雲に恐れることは無かったな。
だから、自分の若さ(身体面の)を振りかざして、年上の人を蔑むことも無かった。
そして、相手の未熟さや経験不足をあげつらって、年下の人を嘲ることも無かった。
それには多分、個人的な事情の影響もありそうだけど。
そんな、武器に出来るほどの魅力を持っているとは思えなかったし、それに、年齢の割に経験値(というか、達成度)が低めだ、という自覚もあるので。
(…ま、それらの条件を満たしていれば他者を見下す、とは限らないだろうけれどね。)
どちらかと言うと私の場合、実年齢と今挙げた「達成度(≒経験値)」とが釣り合っていない、ということのほうが、劣等感を抱くけど。
逆に言えば、釣り合いが取れていれば、それでよさそうだと思えるのだが、それは「持たざる者」の想像力の限界なのかな。
そりゃ私だって、歳を取ることへの恐れはあるよ。深刻な老化に見舞われてはいるわけではないながらも、多少はね。
けれども。
思ったからといって、何の考えも無くそのまま口に出すのは、問題だろう。
その物言いが、年上の者にとっては特に、どれほど傲慢に響くことか。たとえ冗談めかしたものだとしても。
それぐらいのこと、考えられないのか?
だからもういい加減、そんな言い方、やめてよ。
日本では幼形信仰にも似た考え方がまだまだ強いし、若ければ多少の失敗は大目に見てもらえる、若くさえあればちやほやされる、ということもあるだろう。それが現実。
でも、そんな傾向に迎合しているだけでは、恐らく事態は好転しないよ。
(話は多少脱線するが、ついでだから書いておこう。
私は、自分の歳に合わせて年齢基準をずらす人が嫌いだ。
自分が10代の頃には「ハタチ超えたらオバサン」と言い、20代になれば「30歳以降は…」、そして30代では「今の中高年ってまだまだ若いよね〜」、…というふうに。
少しずつ言うことを変えて、自分を「ぎりぎりセーフ」の線にじわじわと持っていこうとする、そのせこい根性が気に食わない、ということだ。それは、「いつまでも若々しくあろう」とする気構えとは、似て非なるものだと思う。
初めから一貫した主張を持つのは難しいけれど、上記のように極端な「若さ信仰」を謳うのならば、それなりの覚悟は決めておくべきだよね。その考え方によって遠からず自分が苦しくなる、ということぐらい、予見不可能ではないでしょう?)
ナマモノとしての瑞々しさ、その恩恵に浴することの出来る時期も、ほんの僅か。
その間に胡坐を掻いているだけで、後々痛い目を見ても、決して文句は言えまいに。
どうして、歳を重ねることが、そんなにまで嫌がられるのだろう。
そんな、お茶でもあるまいし、出涸らしになってしまうとは限らないでしょう?
心掛けと過ごし方次第なんていうのは綺麗事、そんなの書生論だよ…と言われるかもしれないね。
けれど、それでもいいじゃない。ただ過ぎ行く日々を嘆くよりは。
青春
サムエル・ウルマンの詩より
青春とは人生のある期間をいうのではなく
心の様相をいうのだ
年を重ねただけで 人は老いない
理想を失う時に はじめて老いがくる
歳月は皮膚のしわを増すが
情熱を失う時に 精神はしぼむ
人は信念とともに若く
疑惑とともに老ゆる
希望ある限り若く
失望とともに老い朽ちる
節約が、趣味から義務へと変わる時
2004年8月15日 読書ISBN:4007000379 単行本 斎藤 美奈子 岩波書店 2002/08 ¥798
内容(「BOOK」データベースより)
雑炊、すいとんだけではなかった戦争中の多彩なメニュー。米がない!食料がない!そのとき人々はどうしたか。日中戦争、太平洋戦争、敗戦までの食生活史を網羅。こんなものまで食べていた!究極の非常食を再現。戦争中の味がリアルに体験できるレシピ満載。写真で見る戦争中の暮らし。食べられる野草図鑑つき。「ぜいたくは敵だ」の時代の台所と食卓に迫る読めて使えるガイドブック初登場。
近頃、節約番組をよく見る。
「節約番組」とは、予算を抑えて作った番組…のことではなく、節約をテーマとした番組を指して言う。(私が今勝手に考えた名称である。)
数名が各自1ヶ月1万円での生活を送って残高の多さを競うものだったり、あるいは、「ビンボーバトル」と称して普段の貧乏生活を紹介するものだったり(…どの番組のことだかバレバレだな)。時間帯も、ゴールデン枠から深夜まで、色々ある。
「ビンボーバトル」のほうの番組名は、『●形金太郎』(略して『銭金』)といって、時々私の携帯フォト日記のネタにしている。(視聴者以外には、「一体何のことやら、さっぱり」という内容が多いですね、すみません。)結構楽しんで見ているのだが、しかしその一方で、
「これは、一歩間違えば、危険な方向に進んでしまいそうだ」
と感じることも少なくない。
それでなくとも、『銭金』には、ちょっとねじれた感覚の人がよく登場するのだけど。そのねじれが、経済的な苦しさゆえに生じたものなのか、それとも元来から持っていた性格が環境(=困窮)によって引き出されただけなのか、どちらなのかは定かではないが(失礼)、ともかく、
「貧すれば鈍するとは、まさに、こういうことだな…」
と思うこともある。絶句せずに笑える程度・性質のものならまだしも、そうでない場合も度々見受けられる。
そして、もうひとつ挙げた「1ヶ月1万円」のほうも、ちょっとなぁ…と思うところがある。
野草を摘んで食材の足しにする、なんていうのは、
「自然の恵みを味わえて、あれはあれで時にはいいかもしれないな」
と考えられなくもないが、しかし、戦時中の食糧事情を思い浮かべてしまうのもまた事実。
もちろんあれは、勝利(=相手の残高を上回ること)を目指して節約が繰り広げられているのだが、掲げられる目標の違いこそあれど、していることに大差は無い。1ヶ月単位で、しかも番組企画という枠内で行うのだからまだ大丈夫だが、もしも無制限・長期化すれば、精神的に参ってしまうような気がする。
自然の恵み云々というのも、あくまで、余裕があればこそ言えることなのである。切羽詰まった状況だと、趣味的に節約を楽しむなんてことは、到底出来ないだろう。
さて、前置きが長くなったが(前置きなんかい!)、一応ここからが本題。
この本では、戦前の食文化から、終戦前後の食糧事情まで、書かれている。著者曰く、「当時の婦人雑誌に載った料理の作り方を通して、そんな戦争中の食の世界へあなたを誘うガイドブック」である(「はじめに」より)。
戦争になれば食べ物が欠乏するのは何故か、戦争体験者でも勘違いをしているらしい。
「軍隊に食糧を供出させられるからでしょう?」
と、的外れなことを口にしたりするそうである。(…今、「勘違い」「的外れ」などと偉そうに言ったけれど、恥ずかしながら私も、そう思い込んでいるふしがあった。)
本当の理由は、ふたつ。ひとつは、全ての産業に軍需が優先する(=農村の人手が手薄になる)ということ。そしてもうひとつは、経済封鎖や海上封鎖による、輸送の問題。
戦争は戦闘や空襲のことだと思ってしまいがちだ。しかし、戦闘は戦争のほんの一部分でしかない。戦争の大部分は、物資の調達、運搬、分配といったいわば「お役所仕事」である。日本政府と旧日本軍はそこを甘く見ていたということだ。
(傍線引用者。以下同様。)
というわけで、題名について、本文の終わりの辺りに説明がある。
戦争になれば必ずまた同じことが起きる。戦争の影響で食糧がなくなるのではない。食糧が無くなるのが戦争なのだ。その意味で、先の戦争中における人々の暮らしは「銃後」でも「戦時」でもなく「戦」そのものだった。だから「戦時下」ではなく「戦下」のレシピなのである。
なるほど。
確かに、直接戦闘に関わらない一般国民の暮らしは「銃後」と呼ばれ、その苦労なんて前線の兵士に比べればまだまし、と軽んじられることがある。
けれど、「一気にやられるのではなく、じわじわと痛めつけられるほうが、ある意味、辛いこともある」のかもしれない。イケイケ気分(←これまた、借用した表現です。)だった戦争初期はともかく、終盤は決して安穏と過ごしていたわけではないのだから。
食に関する事柄は、身近ではあるが、卑近だとは思わない。食べ物のことよりも戦闘のことを考えるほうが偉い、というわけでは、決してない。ましてや、一般人の食糧よりも兵糧のほうが大切、などということもなかろう。(ちなみに、戦地では内地よりいっそう食糧に窮していた(食糧の補給や現地調達に失敗したから)、とある。)
(しかし…、「戦下」って言葉、あまり認識されていませんよね。今この文を書いていて漢字変換しても、別の単語4つしか出て来なかったし。
ちなみに、意味はそれぞれ、以下の通り。
戦火:戦争による火災・戦闘
戦禍:戦争による被害・災難
戦渦:戦争による混乱
戦果:戦争・戦闘で得た成果
知らなかった…。なので、自分のための備忘録として、この機会に書いておく。)
最後に、あとがきを一部引用しておこう。資料をもとに淡々と語られる本書には数少ないながらも、著者の主張が述べられた重要な箇所である。(とはいえ、資料の収集・分析などを軽視しているわけではありませんので、悪しからず…。)
このような題材は、とかく感謝や反省の材料に使われがちです。「いまの豊かな生活を感謝しましょう」「いまのぜいたくな暮らしを反省しましょう」というわけです。しかし、当時の暮らしから、耐えること、我慢することの尊さを学ぶという姿勢は違うような気がします。こんな生活が来る日も来る日も来る日も来る日も続くのは絶対に嫌だ! そうならないために政治や国家とどう向き合うかを、私たちは考えるべきなのです。
異性に宛てる手紙のマナー?
2004年8月14日 読書ちゃんとした手紙とはがきが書ける本。
ISBN:4838783647 大型本 マガジンハウス マガジンハウス 2002/06 ¥980
内容(「MARC」データベースより)
手紙とはがきの基本の形はどうしても知っておきたい。言いたいことがちゃんと伝わる手紙とはがきの文例大事典や、書き出し・時候の挨拶・結び文の文例早見帖などを収録。特製ポストカード、封筒つき。
またもや、ちょっと父の日の話題に絡めて書いてみる。
父に出した葉書は、ピンクの薔薇の絵柄のものである。
こてこてに甘い雰囲気(笑)で、家族以外の異性には出しにくいような(同性なら構わないけど)。だから、ちょうどいいかと思って使った。
いや、理由は何もそれだけじゃないけどね。そういえば確か、父の日って薔薇を贈るんじゃなかったっけ? 記憶が曖昧だけど…。もう一方の、母の日がカーネーションというのは、しっかり覚えているのだが。父の日って、やっぱり影が薄いのか?
話を元に戻そう。そういう甘ったるい感じの絵柄ならば、ある程度は規制を…と言っては大袈裟だが、相手によっての使い分けをしてもよいと思う。
手紙に限らず、例えば深紅の薔薇だったら、(贈る側にも覚悟が要るかもしれないが、)受け取る側はもっと身構えてしまいそうだ。何か言外の意味が込められているのか、と。
けれども。
上に挙げたような極端なもの以外では、なるべく、変な規制を敷かないでほしい。
というのも、便箋や切手の絵柄の組み合わせをあれこれ考えるのは、私の楽しみのひとつなので。
だから、手紙のルールを紹介しているこの本に、
「女性から男性に宛てての手紙なら、きれいな模様や香りのある便箋は避けるべきでしょう。誤解を招くことになりかねません」
などと書いてある(※15頁の最後。)のを読んで、
「何を要らんことを言うてくれるんじゃ!」
と怒りを覚えたりもした。そんなことを、さも当然であるかのように語り、常識っぽくして広めてほしくはないなぁ、私としては。
別にええやんか、男の人への手紙で、模様入りの便箋を使っても…。頼むから、そんなところで私の楽しみを奪ってくれるなよ。
いきなり引用してしまうが、『花のような女』(6月26日の日記参照)の最終章「あなたに花束」で、著者はこう言っている。
「花は、気持ちを伝える小道具として使われることがある。
(中略)
花言葉とかを参考にするヒトもいるかもしれない。でもあまりその意味にとらわれることはない。…きれいならいいんじゃない?
そもそも花に意味を持たせるのは人の勝手で―――
花の色、形、匂い、それらは自分の種子を残すための戦略にすぎない。花は花のために咲くのだ。
それでも人は花に想いを込め、花を愛でる。花とヒト、ヒトとヒト、思い違い、すれ違いもある。それは気になるかもしれないけれど、
どんな時でも花を贈られるとうれしいものだ。その素直な気持ちが大事。」
そう、そうですよ、大田垣さん!
彼女と握手したい気持ちになった。
花に意味を持たせるのは、あくまで人の勝手。人間の側の都合。
同様に、絵柄にも別段深い意味は無い。単に、相手の気持ちが和めば嬉しいな、という思いがあるだけなのだ。(時には、笑いを取れれば、なんて場合も?)
憎からず思う人に書き送る際、あれこれ心を砕くのは、もちろん。
でも、そういう仲だけが全てじゃないから。
それ以外では色柄を極力抑えるべき、という強制は下らないし、あまりに味気無い。
相手の性別によって分け隔てをすることなく、季節の薫りや彩りを手紙に添えたい。
ただそれだけのこと。
…なんて、暑中見舞もろくに出していない私が言えた立場でもないのかもしれないが。(弱気)
花のような女(ヒト)
2004年6月26日 読書
ISBN:4840108919 文庫 大田垣 晴子 メディアファクトリー 2003/10 ¥714
解説より引用。
『この本は、一見すると色鮮やかな、ユーモア溢れるイラスト・エッセイだと思われがちだ。でも、じっくり読んでいくと、辛辣な女性観察が随所にちりばめられていることがわかってくる。(中略)太田垣さんが、この本で繰り返し強調しているのは、男女関係におけるオンナの駆け引きについてだ。(中略)じっくり読んでいくと、その観察の深さ、考察の切れ味に圧倒されてしまう。』
男女間の駆け引きについての記述もさることながら、
「若さゆえの外見の勢いに頼らず、地道に努力する女は報われる」
という論調が、そこここに見られる。特に、ボケ、エニシダ、ムラサキシキブなどの項目で、その傾向が強い。著者自身、そう信じているのかな。(あるいは、執筆当時にはそう信じていた、ということか)
ま、そうあってほしいと思いたいのは、わからないでもないけれど…(そういう気持ち、私にも多少はあるかもしれないからな。とはいえ、私が「努力」と呼べるほどのことをしているかと言えば、それは疑問だが…)。
でも、若さやらをちゃっかりと活用して、美味しいところを掻っ攫ってゆく要領のいい女もいると思うよ〜。…なんてことは、言わないほうがいいんだろうか。
あと、蛇足なんだけど、題名、女と書いてヒトと読ませるあたり、演歌っぽいと思うのは私だけ?
ところで、本書には、れんげ草の項目が無い。
れんげ草は、私にとって、特に好きな花のひとつだ。なので、ちょっと気になる。
もしこの花を加えるならば、著者は一体、どんなふうに描くのだろう、と思った。
* * * * * * *
昔々、
「 手に取るな やはり野におけ れんげ草 」
という句を耳にしたことがある。
れんげ草は、主に田畑の土手や休耕地に咲く花である。可愛さに惹かれて、ついつい摘んで持ち帰りたくなるが、水揚げがよくないので、残念だが萎れてしまう。私も幼い頃、それで何度か悲しい思いをした。以来、眺めるだけに改めた。
改良(時に、改悪?)を重ねた結果、極めて人工的な環境にでも適応した…というより、もはや人の手を借りずには存在し得ない観賞用の植物とは違うのである。
そんな性質になぞらえてだろうか。素朴な感じの、けれどある意味手強い部分もありそうな女の人(つまりは、イモねえちゃんってことか??)を気に掛ける男の人を諭す文言として、上記の句が時々利用される。
一時の激情に絆されるなよ、もっと冷静になれ。今は、物珍しさが先走って、野暮ったいところさえも、新鮮な魅力として目に映っているだけだよ。たとえ手に入れたとて、目新しさなんか、遠からず失われる。耐久力のある観賞価値を持つのは、別の花なんじゃないか? 気紛れを起こすと、後々悔やむことになるぞ。 …なんていうふうに、ね。
…まぁ、あわよくば蜜だけ吸ってやろうなんて魂胆もあるのでしょうかね。
ともあれ、女の人を花になぞらえるなんてのは、昔からよくあることだ。たとえ話としては、かなり使い古されている部類だろう。
だから、気の利いたことを言ったつもりで、自己満足に浸っているのは、はっきり言って見苦しい。この程度の陳腐な比喩で悦に入るとは…と、苦笑も漏れるというものである。
(そういうお前こそ気を付けろよ、と言い返されそうだが。)
先日、近所のれんげ畑の辺りを久々に自転車で通りかかったところ、そこはもう水が張られ、田植えが行われていた。
あぁそうだ、ここは元々、田圃だったんだ…。
夏を迎える前に、れんげ草は、土に鋤き込まれて、影も形も消え失せる。
けれど、自身の姿は無くしても、土壌の一部となって、農作物を育てる。
目を見張るような即効性は得られないかもしれない。けれど、緩やかで穏やかであるがゆえに、確実に養分を行き渡らせる。劇的な効果も無い代わりに、危険や不自然さを伴うことも無い。
それが緑肥の底力。
レビュー
出版社/著者からの内容紹介
たとえばワタシは、ツユクサのような女。
「FRaU」大好評連載が、オールカラーで1冊の本になった!たとえば、ツユクサはしぶとい女、サザンカはファッション女、ヒマワリは宗教勧誘女など、大田垣ワールドを楽しみつつも、花のもつ強烈な個性におどろかされる、36編のイラスト&エッセイ。
花は美しいだけじゃない。目にとまらないような地味な花だってある。そんな花にも咲く意味はあるのだ。──(あとがきより)
花と女性の両方にそそがれる、あたたかく、キビシイ視線をぜひ、堪能してください。
内容(「BOOK」データベースより)
ツユクサはしぶとい女、サザンカはファッション女、ヒマワリは宗教勧誘女など、大田垣ワールドを楽しみつつも、花のもつ強烈な個性におどろかされる、36編のイラスト&エッセイ。
解説より引用。
『この本は、一見すると色鮮やかな、ユーモア溢れるイラスト・エッセイだと思われがちだ。でも、じっくり読んでいくと、辛辣な女性観察が随所にちりばめられていることがわかってくる。(中略)太田垣さんが、この本で繰り返し強調しているのは、男女関係におけるオンナの駆け引きについてだ。(中略)じっくり読んでいくと、その観察の深さ、考察の切れ味に圧倒されてしまう。』
男女間の駆け引きについての記述もさることながら、
「若さゆえの外見の勢いに頼らず、地道に努力する女は報われる」
という論調が、そこここに見られる。特に、ボケ、エニシダ、ムラサキシキブなどの項目で、その傾向が強い。著者自身、そう信じているのかな。(あるいは、執筆当時にはそう信じていた、ということか)
ま、そうあってほしいと思いたいのは、わからないでもないけれど…(そういう気持ち、私にも多少はあるかもしれないからな。とはいえ、私が「努力」と呼べるほどのことをしているかと言えば、それは疑問だが…)。
でも、若さやらをちゃっかりと活用して、美味しいところを掻っ攫ってゆく要領のいい女もいると思うよ〜。…なんてことは、言わないほうがいいんだろうか。
ところで、本書には、れんげ草の項目が無い。
れんげ草は、私にとって、特に好きな花のひとつだ。なので、ちょっと気になる。
もしこの花を加えるならば、著者は一体、どんなふうに描くのだろう、と思った。
* * * * * * *
昔々、
「 手に取るな やはり野におけ れんげ草 」
という句を耳にしたことがある。
れんげ草は、主に田畑の土手や休耕地に咲く花である。可愛さに惹かれて、ついつい摘んで持ち帰りたくなるが、水揚げがよくないので、残念だが萎れてしまう。私も幼い頃、それで何度か悲しい思いをした。以来、眺めるだけに改めた。
改良
そんな性質になぞらえてだろうか。素朴な感じの、けれどある意味手強い部分もありそうな女の人(つまりは、イモねえちゃんってことか??)を気に掛ける男の人を諭す文言として、上記の句が時々利用される。
一時の激情に絆されるなよ、もっと冷静になれ。今は、物珍しさが先走って、野暮ったいところさえも、新鮮な魅力として目に映っているだけだよ。たとえ手に入れたとて、目新しさなんか、遠からず失われる。耐久力のある観賞価値を持つのは、別の花なんじゃないか? 気紛れを起こすと、後々悔やむことになるぞ。 …なんていうふうに、ね。
…まぁ、あわよくば蜜だけ吸ってやろうなんて魂胆もあるのでしょうかね。
ともあれ、女の人を花になぞらえるなんてのは、昔からよくあることだ。たとえ話としては、かなり使い古されている部類だろう。
だから、気の利いたことを言ったつもりで、自己満足に浸っているのは、はっきり言って見苦しい。この程度の陳腐な比喩で悦に入るとは…と、苦笑も漏れるというものである。
(そういうお前こそ気を付けろよ、と言い返されそうだが。)
先日、近所のれんげ畑の辺りを久々に自転車で通りかかったところ、そこはもう水が張られ、田植えが行われていた。
あぁそうだ、ここは元々、田圃だったんだ…。
夏を迎える前に、れんげ草は、土に鋤き込まれて、影も形も消え失せる。
けれど、自身の姿は無くしても、土壌の一部となって、農作物を育てる。
目を見張るような即効性は得られないかもしれない。けれど、緩やかで穏やかであるがゆえに、確実に養分を行き渡らせる。劇的な効果も無い代わりに、危険や不自然さを伴うことも無い。
それが緑肥の底力。
大正時代の身の上相談
2004年6月22日 読書
ISBN:4480037101 文庫 カタログハウス 筑摩書房 2002/02 ¥714
この本の「案内人」を名乗って各項に一言差し挟む、太田敦子という女の人が、色々な書評で辛辣に批判されているけれど、別に、そんなに貶すほどのことでもないだろう。
確かに、訳のわからない、的外れの茶々入れも散見されるが、でも、それとてさほど目障りとは感じられない。ま、そのぶんは巻末の解説(あの『もてない男』の人だよな…)で指摘されているから、それでよいのでは、と。←何だか、偉そうな物言いだが
それよりも、大正時代の市井の人々の相談や、また、それを受けての記者の意見や回答の魅力は、上記の欠点を補って余りあるものだ、というふうに私は思う。
ところで、自分がこの本に惹かれるのは何故なのか、他の理由も私なりに考えてみた。それが、以下の通り。
大正時代といえば、今から80〜90年ほど前である。だから、投稿者が当時どんなに若かったとしても、現在は3桁に乗る歳だと見てよい。それも、長寿ならばの話。実際は、既に亡くなった方も多かろう。
ということは。
本書で紹介されている悩みは、全て、解決済の事柄なのだ。いや、「解決」ではなく「ご破算」とでも言い換えるべきか。円満な解決を見たかどうかは知らないのだから(*1)。
しかし、いずれにせよ、個人単位での出来事なので、現在の世界には関連が無い。それでいて、現代と似通った部分も多々ある(*2)。
つまり、共時性ゆえの生々しさは背負わずに済み、それでいて、共感はちゃっかり味わえる、というわけだ。
それを考えると、大正時代という選択は、絶妙だなぁと思った。現代から、近過ぎも遠過ぎもしない、時間的な距離感(って、変な言葉かな?)が、すごくいい。
…なんてのは、他の事においても「つかず離れず」を好みがちの、身勝手な私だから思うこと、なのだろうか???
(*1)本当は、解決が望ましいのだけど。
しかし、積極的な働き掛けの無いまま、「なるようになれ」とばかりに放置されたことも少なくないだろう。まぁ、歳月の経過は、良くも悪くも風化を呼び込むから、それもひとつの方法なのかもしれないな…。
とはいえ、「時の流れるままにどうにでも」なんていうのは、私は好みじゃないけどね。足掻くなり何なり、もっと自分で動かんかい! と思ってしまう。(←蛇足コメント。我が身の至らなさも省みずに…)
(*2)もっとも、この時代ならでは、と思わされるところもあるが。処女に対する異様なまでの執着とか、ね。その点では、現代に生まれてよかったと思ったよ…(苦笑)。
ともかく、そういうわけで、身勝手な私は、時折この本の頁を捲りながら、ちびちびとやることもある。…あくまで「こともある」程度ですよー、誤解の無きよう。(←苦しい?)
今の自分の身近な人の話題を、酒の席の肴として供するのは、時として危険である。だから、自分とは無関係の、しかも時間によって灰汁が抜け生々しさも消えた、大正時代の身の上相談ならば、誰を傷付けることもあるまい、と。そう考えて選んでいる部分も、ある。
(いや、この日記の中でも、知人を悪く言ってしまったことなんて、もう何遍もあるんだけどね…。だから、「傷付けることもあるまいだなんて、何を今更」と、自分で呆れもしているのだけどね…。
それに第一、宴席の話題ではなく、単なる独り酒の供だし。つくづく暗い飲み方してるよなー、なんて突っ込みは堪忍して下さい、頼みます。自覚はありますから。)
レビュー
内容(「BOOK」データベースより)
他人の悩みはいつの世も蜜の味。これは大正時代に新聞紙上で129人が相談した、ニッポンの悩みカタログだ。「芸者になるには声が悪い」「妻が処女でなかった」「娘の求婚者が醜いので断りたい」「お尻の大きい少年の僕」「何不自由ない暮らしだが空しい」―。どうかと思うあきれた悩み、身につまされる深刻な悩みがそれぞれに時代を映し出し、つい現代のわが身を省みる。
目次
清ク正シキ乙女ノ困惑
アドケナキ少年ノ苦悩
ソロソロオ年頃、ノ憂鬱
アァ青春ノ懊悩
進路ヲ決メルニアタッテノ混迷
縁談、結婚ニ関スル逡巡
結婚シナイカモシレナイ女ノ問題
困ッタ夫ニ対スル妻ノ閉口
妻ニ手コズル夫ノ煩悶
結婚生活ノ危機ニ際シテノ苦悩
昔ノ恋人ニ揺レ動ク心
主義主張ニ生キル人ノ苦悶
"バツイチ"ノ戸惑イ
道ナラヌ恋ノ悶エ
仕事、職場ニマツワル問題
性格ニツイテノ思惑
悩ミナキ人ノ難問
イササカ面目ニ欠ケル悩ミ
この本の「案内人」を名乗って各項に一言差し挟む、太田敦子という女の人が、色々な書評で辛辣に批判されているけれど、別に、そんなに貶すほどのことでもないだろう。
それよりも、大正時代の市井の人々の相談や、また、それを受けての記者の意見や回答の魅力は、上記の欠点を補って余りあるものだ、というふうに私は思う。
ところで、自分がこの本に惹かれるのは何故なのか、他の理由も私なりに考えてみた。それが、以下の通り。
大正時代といえば、今から80〜90年ほど前である。だから、投稿者が当時どんなに若かったとしても、現在は3桁に乗る歳だと見てよい。それも、長寿ならばの話。実際は、既に亡くなった方も多かろう。
ということは。
本書で紹介されている悩みは、全て、解決済の事柄なのだ。いや、「解決」ではなく「ご破算」とでも言い換えるべきか。円満な解決を見たかどうかは知らないのだから(*1)。
しかし、いずれにせよ、個人単位での出来事なので、現在の世界には関連が無い。それでいて、現代と似通った部分も多々ある(*2)。
つまり、共時性ゆえの生々しさは背負わずに済み、それでいて、共感はちゃっかり味わえる、というわけだ。
それを考えると、大正時代という選択は、絶妙だなぁと思った。現代から、近過ぎも遠過ぎもしない、時間的な距離感(って、変な言葉かな?)が、すごくいい。
(*1)本当は、解決が望ましいのだけど。
しかし、積極的な働き掛けの無いまま、「なるようになれ」とばかりに放置されたことも少なくないだろう。まぁ、歳月の経過は、良くも悪くも風化を呼び込むから、それもひとつの方法なのかもしれないな…。
とはいえ、「時の流れるままにどうにでも」なんていうのは、私は好みじゃないけどね。足掻くなり何なり、もっと自分で動かんかい! と思ってしまう。(←蛇足コメント。我が身の至らなさも省みずに…)
(*2)もっとも、この時代ならでは、と思わされるところもあるが。処女に対する異様なまでの執着とか、ね。その点では、現代に生まれてよかったと思ったよ…(苦笑)。
ともかく、そういうわけで、身勝手な私は、時折この本の頁を捲りながら、ちびちびとやることもある。…あくまで「こともある」程度ですよー、誤解の無きよう。(←苦しい?)
今の自分の身近な人の話題を、酒の席の肴として供するのは、時として危険である。だから、自分とは無関係の、しかも時間によって灰汁が抜け生々しさも消えた、大正時代の身の上相談ならば、誰を傷付けることもあるまい、と。そう考えて選んでいる部分も、ある。
(いや、この日記の中でも、知人を悪く言ってしまったことなんて、もう何遍もあるんだけどね…。だから、「傷付けることもあるまいだなんて、何を今更」と、自分で呆れもしているのだけどね…。
それに第一、宴席の話題ではなく、単なる独り酒の供だし。つくづく暗い飲み方してるよなー、なんて突っ込みは堪忍して下さい、頼みます。自覚はありますから。)