方言バイリンガル(加筆訂正あり)
2003年3月16日私は生まれも育ちも現在の住まいも関西だからか、話す時には結構こてこての関西弁を使う。
だが、その一方、例えばこの日記でも、書く時には基本的に方言を抜くことにしている。
というのは、そのほうが意味が間違いなく伝わりやすいし、方言使用による変な先入観の影響を受けずに済みそうだからだ。それこそが、標準語(とされるもの)の存在意義である。
もちろん、例外はある。発言や会話文の引用、それに心の中での呟き、あるいは茶化したりする場合など。後者では逆に、色眼鏡の効果を狙っている、とでも言うべきか。(上手く行っているかは別として。それと、たまには、単に気分で使ってみる…なんてことも、あったかもしれない。)
だからなのだろうか、テレビやラジオなどで関西弁を話す人を見る(聞く)と、
「あー、あの人、めっちゃ関西弁やわー!」
と口にしてしまう。(但し、お笑い芸人は除く。彼らの場合は、一種の職業的な言語と捉えているのかもしれない。)
傍に人がいれば、必ずや、
「あんたもそうやろ、あんたも!!」
と突っ込みを入れられるに違いないが。関西弁に過剰反応する関西人・猫またぎ。きっと妙に思われるだろう。
しかし、メディアを通した方言というものは、それぐらい、少なからぬ違和感を伴って、聞く者の耳に響く、ということだ。
それはまた、書き言葉に関しても同様である。
以前、地の文すらも一貫して関西弁で通した本を読んだ時、正直言って、どうにも気持ちが悪くなってしまって困った。あまりの気持ち悪さゆえ、読了を諦め、途中で投げ出した程である。
京都出身・在住であるというその著者は、京言葉で文章を綴っていることが誇りであるらしかったが、私は首を傾げてしまった。そんなもの、別に大したことでもあるまいに。しかも、短いプロフィールの欄を割いてまでして、わざわざ言うようなことか?
せめて地の文ぐらい、「標準語」にしてほしいのになぁ…と思わずにはいられなかった。普段の会話では関西弁を用いる私ですら、文字の世界でそれで語られると、猛烈な気持ち悪さを覚えたのである。だから、ましてや他の地方の人からしてみれば、どうなのだろう…? とも考えた。(それとも、不快に感じる感じないは、単に個々人の好みなどの差によるものなのか?)
先に用いた表現で言うならば、「標準語」は、アナウンサーや文筆家の「職業言語」だと思うので。
ともかく、そんな私は、いわば「方言バイリンガル」状態、なわけである(私に限らず、多分、他の人も)。話し言葉と書き言葉の使い分けは当たり前。それが日常なのだ。
もっとも、後者で得られる偏りの無さを前者にも欲するとなれば、両方とも「標準語」にすればよいのかもしれないけれど…。でもなぁ…うーん。(少なくとも今のところは、そこまでする気は無いのである。)
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