大正時代の身の上相談
2004年6月22日 読書
ISBN:4480037101 文庫 カタログハウス 筑摩書房 2002/02 ¥714
この本の「案内人」を名乗って各項に一言差し挟む、太田敦子という女の人が、色々な書評で辛辣に批判されているけれど、別に、そんなに貶すほどのことでもないだろう。
確かに、訳のわからない、的外れの茶々入れも散見されるが、でも、それとてさほど目障りとは感じられない。ま、そのぶんは巻末の解説(あの『もてない男』の人だよな…)で指摘されているから、それでよいのでは、と。←何だか、偉そうな物言いだが
それよりも、大正時代の市井の人々の相談や、また、それを受けての記者の意見や回答の魅力は、上記の欠点を補って余りあるものだ、というふうに私は思う。
ところで、自分がこの本に惹かれるのは何故なのか、他の理由も私なりに考えてみた。それが、以下の通り。
大正時代といえば、今から80〜90年ほど前である。だから、投稿者が当時どんなに若かったとしても、現在は3桁に乗る歳だと見てよい。それも、長寿ならばの話。実際は、既に亡くなった方も多かろう。
ということは。
本書で紹介されている悩みは、全て、解決済の事柄なのだ。いや、「解決」ではなく「ご破算」とでも言い換えるべきか。円満な解決を見たかどうかは知らないのだから(*1)。
しかし、いずれにせよ、個人単位での出来事なので、現在の世界には関連が無い。それでいて、現代と似通った部分も多々ある(*2)。
つまり、共時性ゆえの生々しさは背負わずに済み、それでいて、共感はちゃっかり味わえる、というわけだ。
それを考えると、大正時代という選択は、絶妙だなぁと思った。現代から、近過ぎも遠過ぎもしない、時間的な距離感(って、変な言葉かな?)が、すごくいい。
…なんてのは、他の事においても「つかず離れず」を好みがちの、身勝手な私だから思うこと、なのだろうか???
(*1)本当は、解決が望ましいのだけど。
しかし、積極的な働き掛けの無いまま、「なるようになれ」とばかりに放置されたことも少なくないだろう。まぁ、歳月の経過は、良くも悪くも風化を呼び込むから、それもひとつの方法なのかもしれないな…。
とはいえ、「時の流れるままにどうにでも」なんていうのは、私は好みじゃないけどね。足掻くなり何なり、もっと自分で動かんかい! と思ってしまう。(←蛇足コメント。我が身の至らなさも省みずに…)
(*2)もっとも、この時代ならでは、と思わされるところもあるが。処女に対する異様なまでの執着とか、ね。その点では、現代に生まれてよかったと思ったよ…(苦笑)。
ともかく、そういうわけで、身勝手な私は、時折この本の頁を捲りながら、ちびちびとやることもある。…あくまで「こともある」程度ですよー、誤解の無きよう。(←苦しい?)
今の自分の身近な人の話題を、酒の席の肴として供するのは、時として危険である。だから、自分とは無関係の、しかも時間によって灰汁が抜け生々しさも消えた、大正時代の身の上相談ならば、誰を傷付けることもあるまい、と。そう考えて選んでいる部分も、ある。
(いや、この日記の中でも、知人を悪く言ってしまったことなんて、もう何遍もあるんだけどね…。だから、「傷付けることもあるまいだなんて、何を今更」と、自分で呆れもしているのだけどね…。
それに第一、宴席の話題ではなく、単なる独り酒の供だし。つくづく暗い飲み方してるよなー、なんて突っ込みは堪忍して下さい、頼みます。自覚はありますから。)
レビュー
内容(「BOOK」データベースより)
他人の悩みはいつの世も蜜の味。これは大正時代に新聞紙上で129人が相談した、ニッポンの悩みカタログだ。「芸者になるには声が悪い」「妻が処女でなかった」「娘の求婚者が醜いので断りたい」「お尻の大きい少年の僕」「何不自由ない暮らしだが空しい」―。どうかと思うあきれた悩み、身につまされる深刻な悩みがそれぞれに時代を映し出し、つい現代のわが身を省みる。
目次
清ク正シキ乙女ノ困惑
アドケナキ少年ノ苦悩
ソロソロオ年頃、ノ憂鬱
アァ青春ノ懊悩
進路ヲ決メルニアタッテノ混迷
縁談、結婚ニ関スル逡巡
結婚シナイカモシレナイ女ノ問題
困ッタ夫ニ対スル妻ノ閉口
妻ニ手コズル夫ノ煩悶
結婚生活ノ危機ニ際シテノ苦悩
昔ノ恋人ニ揺レ動ク心
主義主張ニ生キル人ノ苦悶
"バツイチ"ノ戸惑イ
道ナラヌ恋ノ悶エ
仕事、職場ニマツワル問題
性格ニツイテノ思惑
悩ミナキ人ノ難問
イササカ面目ニ欠ケル悩ミ
この本の「案内人」を名乗って各項に一言差し挟む、太田敦子という女の人が、色々な書評で辛辣に批判されているけれど、別に、そんなに貶すほどのことでもないだろう。
それよりも、大正時代の市井の人々の相談や、また、それを受けての記者の意見や回答の魅力は、上記の欠点を補って余りあるものだ、というふうに私は思う。
ところで、自分がこの本に惹かれるのは何故なのか、他の理由も私なりに考えてみた。それが、以下の通り。
大正時代といえば、今から80〜90年ほど前である。だから、投稿者が当時どんなに若かったとしても、現在は3桁に乗る歳だと見てよい。それも、長寿ならばの話。実際は、既に亡くなった方も多かろう。
ということは。
本書で紹介されている悩みは、全て、解決済の事柄なのだ。いや、「解決」ではなく「ご破算」とでも言い換えるべきか。円満な解決を見たかどうかは知らないのだから(*1)。
しかし、いずれにせよ、個人単位での出来事なので、現在の世界には関連が無い。それでいて、現代と似通った部分も多々ある(*2)。
つまり、共時性ゆえの生々しさは背負わずに済み、それでいて、共感はちゃっかり味わえる、というわけだ。
それを考えると、大正時代という選択は、絶妙だなぁと思った。現代から、近過ぎも遠過ぎもしない、時間的な距離感(って、変な言葉かな?)が、すごくいい。
(*1)本当は、解決が望ましいのだけど。
しかし、積極的な働き掛けの無いまま、「なるようになれ」とばかりに放置されたことも少なくないだろう。まぁ、歳月の経過は、良くも悪くも風化を呼び込むから、それもひとつの方法なのかもしれないな…。
とはいえ、「時の流れるままにどうにでも」なんていうのは、私は好みじゃないけどね。足掻くなり何なり、もっと自分で動かんかい! と思ってしまう。(←蛇足コメント。我が身の至らなさも省みずに…)
(*2)もっとも、この時代ならでは、と思わされるところもあるが。処女に対する異様なまでの執着とか、ね。その点では、現代に生まれてよかったと思ったよ…(苦笑)。
ともかく、そういうわけで、身勝手な私は、時折この本の頁を捲りながら、ちびちびとやることもある。…あくまで「こともある」程度ですよー、誤解の無きよう。(←苦しい?)
今の自分の身近な人の話題を、酒の席の肴として供するのは、時として危険である。だから、自分とは無関係の、しかも時間によって灰汁が抜け生々しさも消えた、大正時代の身の上相談ならば、誰を傷付けることもあるまい、と。そう考えて選んでいる部分も、ある。
(いや、この日記の中でも、知人を悪く言ってしまったことなんて、もう何遍もあるんだけどね…。だから、「傷付けることもあるまいだなんて、何を今更」と、自分で呆れもしているのだけどね…。
それに第一、宴席の話題ではなく、単なる独り酒の供だし。つくづく暗い飲み方してるよなー、なんて突っ込みは堪忍して下さい、頼みます。自覚はありますから。)
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