これでもくらえ!

2002年12月15日
 引き続き、うなぎパイ氏ネタ。
 
 
 私はメールのやりとりに関しては、わりと受身になってしまう性質である。よって、メールが来ればその返信をする、という形になる。
 ともすれば、横柄に映るやもしれないが、相手に送ってよいかどうかの見極めが、粗忽者の私にとっては結構難しい。だから、来たメールには基本的には返事をしよう、という無難路線を歩んでいる。
 自分から動かないというのは、これはこれで問題もあるのだろうが、我が身のことは今日はさておくとする。(身勝手極まりないが、そういう気分なので、そうする。)
 
 だが、「基本」というからには当然、例外もある。
 受け取ったメールの内容が、自分の気に食わなかった時である。
 
 時折メールをくれるうなぎパイ氏。それ自体は嫌ではないので、その都度、返信をする、という程度の付き合いが続いていた。
 そして、この夏にも、ふと思い出したかのように(実際そうなんだろうけど)、ふらりとメールが来た。
 
「猫さん、元気? 最近、いいことあった?」
 
 何じゃこりゃ。
 善意(?)に解釈すれば、私のことを気遣ってくれている…と読めなくもない、かもしれない。
 だが、不幸なことに、その時の私には、その善意の芽生える余裕が無かった。招かれざる客が、我が部屋に出現した為だ。
 …相手に一方的に、快い話題の提供を迫るなよ。
 
 無視という手もあるが、一応返信。
 
「悪いことならばありました。ゴキブリが出ました」
 
 丁度その直前に、黒々としたやつが、現れたのである。
 私にとって不幸なことだが、彼にとっても不幸だったかもしれない。
 でも、悪いのは、タイミングである。9割方。
 こればかりは、どうしようもないよな。
 
 
 ちなみに、このメールの後、彼は一切の連絡を絶っている。変なところでだけ発揮される私の律義さが徒になったと言えるだろう。
 まあ、音信不通には、多分大した意味は無いのだろうが。自分が望む回答…例えば、彼の多忙を労う内容、が得られなかったから、遠ざかったまでのこと。
 別に、構いません。嫌ってなんかいませんから。特に好いてもいませんけれど。つまり、彼に寄せる感情自体が希薄だったということかもしれない。
 でも、日記のネタにはさせてもらったけどね。
 
 
 とりあえずは、タイミングの勢いを借りて、
「私はあなたに心の安らぎやらを一方的に提供するだけの人間として存在しているんじゃないよ」
と主張してみた、ということかな。
 主張というほどの大それたものではないけれど。 受身人間の、ささやかな抵抗、ということで、ひとつ。
 
 私を感情の捌け口にしないでね。
 
 確かに彼の仕事は忙しいらしいが、だからといって、彼よりもひまな私にその大変さをぶちまけてもよい、という道理は無いと思うから。
 それが、あなたの持っていた、残り1割ぶんの悪いところ。

直球勝負せよ!

2002年12月14日
 とある私の知人の話である。
 この日記での仮名を、うなぎパイ氏としよう。(私の名付けのセンスの無さが、改めてバレバレになるが。)
 
 さて、そのうなぎパイ氏。
 私とはどのような間柄かというと、これといった接点は無い。
 元々は、友人の龍ちゃんの紹介(と言うのかな?)で知り合ったのである。
 その彼は、初対面の日に、会話の途中で私にこう聞いてきた。
「猫さん、彼氏、元気〜?」
 
 当時私には付き合っている人がいたので、てっきりそのことを龍ちゃんから聞いたのだとばかり、思い込んでしまった。
 で、思わずハッとした顔をし、
「…龍ちゃん!」
と、独り言をぽろっと漏らしてしまったのだ。
 それを耳にした彼は、ニヤリと口許で笑った。
 
 しかし。
 後に龍ちゃんに確かめてみると、彼女はそんなことは言っていない、とのこと。
 ということは…!
 どうやら、彼は私を試していたらしいのである。
 彼氏持ちの身か否か、反応を見て判断しよう、と。
 で、間抜けな私は、まんまとそれに引っ掛かってしまった、というわけだ。
 
 
 もしかしたら、それは駆け引きのほんの初歩的な方法なのかもしれない。
 けれど、私はそれに気を悪くした。
 私の交際状況を知りたいのであれば、前記のようにではなく、
「彼氏はいるの?」
と問えばよいものを。そんな、わざわざひねった質問で、探り出すような真似をすることもあるまいに。
 つまりは、彼は策士だったということか。それにしても、何ともちゃちな策だな。(それにはめられた私が口にする台詞じゃないかもしれないが。)
 その時すぐに思ったのは、
「この人とは、ただの友達あるいは知人でいよう」
ということだ。

「友達でいたい」
と殊更に意識して思う場合、大きく分けて二通りの意味がある、と私は考える。
 ひとつは、正の意味で。とても魅力を感じる人で、恋人にしたくないと思っているわけではないが、諸般の事情で友達止まり、ということ。
 そしてもうひとつは、負の意味で。恋人にすると煩わしそうだからやめておこう、ということだ。
 今回の彼は、言うまでもないが後者である。
 
 
 もちろん、その頃は恋人のいる身だったから、彼をそういった対象として見ることは無かったのだが。
 独りの今も、こういう人とは付き合いたいとは思わない。
 肚の探り合いなんか、したくないから。そういうことばかりしていると、疲れてしまいそうだから。
 駆け引きを用いて、それで相手を手玉に取ったような気分に酔っている輩は嫌いだ。
 
 まあ、もちろん、彼は私を憎からず思っているわけでもなんでもなく、ただ単にからかいのつもりで言ったまでのこと、なんだろうけどね。(基本的に私は、もてない人生を歩んでいるので。)
 でも、そういうことをしていると、そのうち、自分の足許をすくわれるよ、と言ってやりたい。
「策士、策に溺れる」とも言うし。いや、本当に。
 その時には、気兼ねなく彼を笑ってあげよう。
 
 …もしかして、こんな私のほうこそ、腹黒いのか?


山茶花

2002年12月13日
 先日、知人宅から、山茶花の小枝を貰ってきた。
 白と、白と赤の混じったのと、二輪。
 小さな紙袋に入れて、電車に揺られながら持ち帰る。
 袋の口から蕾が顔を微かにのぞかせているのも、何だか嬉しい。
 どれに活けようかなあ、と手持ちの花器を思い浮かべながら家路に着く。
 
 
 帰宅後、コートを脱ぐのもそこそこに、一輪挿しに水を満たす。
 車内の暖気に当てられたせいか、まだ固かった筈の蕾がほころんでいる。ちょっと気が急く。
 小窓とテレビの上にそれぞれ飾る。部屋の中でその一角が、ぱっと華やぐ。
 気に入った角度を探して、写真まで撮ったりする。アホみたいだと我ながら思うが、まあいい。
 
 
 まるで、意中の彼女を初めて自室に招き入れた男の人のようだな、とふと思う。
 いや別に私は、そのうち取って喰ってしまおう、なんて企んでいるわけじゃないけれど。食用の植物でもないし。(論点はそこか?)
 ただ、その可愛らしさにうっとりと見とれてしまう様子がちょっと似ているかも、と思っただけで。
 
 
 あと、こんな寒い部屋で過ごしにくくないかな、とか気を揉んだりするところもそうか。まあ、元々屋外に咲くものだから、大丈夫だろうけど。 
 しかし、彼女が来る前ならば、ちゃんと部屋は片付けておくだろうから、その点は違うな。
 花の可憐さと、室内の状態との対比が凄い。掃き溜めに鶴、という言葉はこういう時のためにあるのかな、などと戯けたことを考える。
 とにかく年内にはきれいにしないと。

 
 まあ、際どい冗談やら、自室の散らかり具合はさておくとして。
 まずは、彼らのために美味しい飲み物でも作るとしようか。
 
 
 
 
 
 
(*)美味しい飲み物:
 煮沸あるいは汲み置きの後、炭で浄化した水のこと。美味しいかどうかは知らないが、何となく花によさそうだと思ってそうしている。
 本当は竹炭ごと花瓶に放り込んでおきたいところだが、一輪挿しは口が狭いため不可能なのである。何かよい方法は無いものか。
 

 このところ、私の気懸かりがひとつ増えた。
 クリスマスカードのことである。
 
 実は、とある友人がこの度、旅行に出ることになった。
 出航日は12月の半ば。帰国は来年の春。
 なので、例年通りに準備をしていては、到底間に合わない。大抵は、20日頃からあたふたと書き始めるので。(それがそもそも遅いんだが。)
 そこで、今年は彼女には少々早目に出すことにした。そもそもクリスマスカードには、「飾って(眺めて)楽しむ」という要素もあるのだろうから、下旬を待たずして送ってもよいのだろうが。(私のカードが観賞向きかどうかはさておくとする。)
 が、しかし。
 ここのところ、少々身体の具合を悪くしており、投函が遅くなってしまった。
 で、到着日が微妙になってしまった、というわけである。投函日から考えると、9日あたりに着いていそうだけど…。
 わざわざ「着いた?」と電話や何かで確認するのも野暮な話だ、とは思いながらも、やっぱり気になってしまう。うーん、困ったものだ。
「そんな悠長な悩みなど、どうでもよいではないか」と突っ込まれそうだが。
 
 
 …と、ここまで書いたのが昨日のこと。
 今日、郵便受けには、彼女からの葉書が入っていた。
 どうやら出発前に無事届いていたもよう。
 よかったよかった。
 
 
 ところで、このクリスマスカードだが、私の場合は、年賀状の役目も兼ねている。「謹賀新年」の代わりに、「メリークリスマス」と「よいお年を」の文句をしたためて送るのである。喪中の通知への返信としても、利用する。
 そして、書ききれなかったぶんは、翌年の寒中見舞で、というわけだ。そんなふうに、1ヶ月ほどにわたって、だらだらと書き続ける。ひどい時には、もっと後の時期にまでずれ込む。年の始めのご挨拶だった筈が、出しているのは、何故か桜の絵柄の葉書だったり、暑中見舞(!)になっていることすらもある。
 つまりは、ただのずぼらである。
 
 
 しかし、それとてまた悪くもあるまい、と私は思う。(以降、このずぼらの正当化の文章が続きます(笑)。)
 忙しい生活を送っている人ならば、年に一度のこの機会にまとめて、と考えるだろう。それは理に適っている。
 だが、その一方で、私のように、時期を限らず便りを出す、というのも、これはこれでありではないか、と。
 要は相手とのご縁を途切れさせたくない、というか、相手のことを思っているんだ、との意図が伝わればよいのだから。
 
 
 そうそう、今日の小見出しは、数年前のファストフードのおまけのシールを、彼女宛の葉書に貼ってみたものである。ちなみにそれはアルファベットではなくカタカナ表記だったが。
 それに、
「まるでプレスリーのようですね」
と一言を添えておいたところ、
「私はビートルズの『ミッシェル』を思い出した」
とのお返事が。
 …どちらも古いな。最近の恋の歌には、あまり使われていないのかしらん。いや、我々が知らんだけか?
 
 ともあれ、彼女のこの冬の航海に幸あらんことを、そして無事に戻ってくることを願うとしよう。
 

目減りする恋心

2002年12月7日
 今日は雨なのに買物。
 両手にはそれぞれ紙袋と手提げ鞄、おまけに傘もささねばならない。
 煩わしいことこの上ない。しかも、荷物がずっしりと重く、手に負担が掛かる。
 
 
 ふと、まだ私に付き合っている人がいた、その頃の出来事を、思い出した。
 
 その日は雨天ではなかったが、たくさんの荷物を持って、彼と歩いていた。私はいつも何かしら抱えているのだが、その時は殊に大荷物だった。
 彼は自転車を押して、私と並んで歩いていた。
 前籠は空っぽに近かった。
 けれど、彼は私の様子には何も気付かずに、自転車のハンドルを握ったままである。
 
 目的地に到着する直前、ようやく、
「あ、荷物持とうか?」
と彼が言ってきた。
 …遅いんじゃ。気の利かんやつめ。
 
 しかし、心の中でそう呟いた途端、尚更いやな気分になった。
 というのは、自分の心根が、だ。
 
 何も、相手に期待するのが悪い、というわけではないのかもしれない。
 だが、ここで私が問題だと思うのは、「期待がありながらも、はっきりと言い出せず、それでいて相手を責めてしまう」という状態、である。
 それは、荷物に限らず、他のこと全般にも言えそうだ。特に、私の場合は。
 
 でもなあ。
 相手に期待したって、相手が変化してくれる可能性は、あまり高くはないからな…。
 そもそも、自分以外の人を変えるだなんて、大それた考えなのかもしれない。
 それを承知の上で、要望を出してみるべきなのだろうが、いかんせん、私にはそれが出来ない。
 
 
 そんなふうに、色々と思い煩うことも、独りとなった今は無い。
 いや、全く無いわけでもないが、現実に相手がいないので、とりあえずは直面せずに済んでいる。想像の世界のみだ。
 しかし、それも悪くはないと考えることにしている。
 自分とて完全には程遠いのに、他者に依りかかろうとするばかりでは、相手が倒れてしまう。または、相手がそっぽを向いてしまう。
 そんなふうに、「二人でいても淋しい」よりは、「独りで淋しい」ほうが、幾らかましであろうから。
 
 別れた原因はこれだけではないけれど。
 似たようなことが積み重なって、こうなった、というところかな。じりじりと、相手への気持ちが目減りしていった、という感じである。
 
 今は独りが丁度よい。

日々は過ぎ行く

2002年12月6日
 …書かない間にも、結構時間は経ってしまうものだなあ…と、日記ページを開いて改めて感じた今日でした。
 なので、書けるときは書いておこう、と(話題が頭に浮かばないで困っている、というわけではないので)。
 
 ただし、一気に書き上げられるかどうかはわからないので、分割して送信します。
 というわけで、まずは秘密日記で、久々のレス。 その後、今日(12月7日)の分として、本文追加予定。
 

不覚の一滴

2002年11月21日
 まず最初に、断わっておきます。
 読んで不愉快になられたとしたら、ごめんなさい(特に、該当する方)。デリケートな問題だとは知りながらも、疑問が抑えきれませんでした。なので、書くことにしました。自分の日記ですから。
 からかおうなどといった、他意・悪意は全くありません。ただ、不思議に思っただけのことです。
 言葉足らずや、表現に不備・不適切な部分があるやもしれませんが、悪しからずご了承下されば幸いです。
 
 
 というわけで、本題に入ります。
 
 人間は、必ずしも子作りのためだけに同衾をするわけではありません。むしろ、それ以外の目的でのほうが、数としては余程多かろうと推測されます。
 で、そういう場合、人間の知恵と言いましょうか、望まない妊娠を避ける方策をめぐらすわけですよね。
 昔はいざしらず、現在では、科学・医療技術の発展のおかげで、受胎の仕組みなどがかなり解明されてきたので、その精度は高くなった、とのこと。
 
 しかし。
 それならば何故、「思いがけず、出来ちゃった…」というものが、少なからずあるのでしょうか…?
 
 
 浅はかながら、色々と考えてみました。
 
1)元々、あまり慎重ではなかった。で、出来たら出来たで、その時考えればよい、と思っていた(どちらを選ぶにせよ)。
2)1と同じだが、それを、ふたりが所帯を持つタイミングにしてもよいと思っていた。つまり、一緒になるきっかけが何かあればよいな、ぐらいの状態だった。
3)…これ以上、思いつかない…。
 
 2は、信頼関係が築け、なおかつ添い遂げようという意志がある場合に限られますよね。(別に、それはそれでよいと思います。新しい生命を迎える準備を整えられるのであれば。)
 では、それ以外のカップルは? どうしているのでしょう、どうすればよいのでしょう。
 
 
 幸か不幸か、私はそういった機会が殆ど無かったからか、実感としてつかめていないのです。
 だから、
「そんな、だらしのない」
などと、咎めるつもりで書いたのではありません。そんなわけでは決してありません。
 
 ただ、
「そんなに難しいものなのかなあ?」
と、単純に疑問に思うのです。成功率は、大体80〜90%、という話を耳にしたことがありますし。
 裏返して言えば、10〜20%のカップルは失敗している、ということになりますが。でも、幾つかの方法を併用したり、あるいは注意深く行えば、もっと率は上がる、とも聞きました。
 それは、本当ではないのでしょうか。
 だとしたら、おちおち、次の恋人も探せません(笑)。(←笑うとこじゃないけど。)
 
 私の想像力が貧しすぎるのでしょうか。うーむ。
 

魅惑の一滴

2002年11月16日
 雑誌で、香水の特集を見て、ふとよみがえった疑問。
 香りを身にまとう、という素敵な習慣が私には無いので、今までなおざりにしてきたのですが…。
 
 香水を付ける場合、シャンプーや石鹸類の香りの問題は、どうなっているのでしょうか? 匂いが変にまじりあっても困るだろうし。
 
1)だから、予め、石鹸などとの相性を調べておく。
2)そんな面倒臭いことをするのではなく、無香料の石鹸などを使う。
3)そんな細かいことは気にせずに、香水をつける。
 
 どうなんでしょうね?
 私の性に合っているのは、2か3だと思いますが。とか言いつつも気にしているのだから、やっぱり2かな。
 でも、市販のは殆どが香料入りですよね。うーん、他の人は、この問題をどうしているのでしょう。
 
 
 ここでちょっと思い出話。
 昔、友人から旅行のお土産として、仏製(だったと思う)の香水をプレゼントされました(えらいハイカラな…私には似合わへんような気が…)。
 で、名前を辞書で調べたところ、「浮気な女」というような意味の言葉だったので、面白がって報告したところ、彼女は、
「そんな意味を込めて送ったんとちゃうんやで〜!」
と、変にむきになって弁解していました。
 
 そ、そんな、必死にならなくても…と、その反応に、却ってこちらがびっくりしました。大体、私にはその素質がありませんから…ずぼらゆえ。
 プレイガールには(いや、女に限らず、どちらの性別でも)、それなりの才覚が必要なのだと私は思います。機転の速さや、色気、その他色々。
 少なくとも、髪梳きや洗顔をうっかり忘れそうになっている人には、まず無理でしょうな〜。
 
 
 …うっ、しまった。薮蛇だった…。
 
 と、とにかく、もう冬だから、いい加減、炬燵を出さなくては。ストーブの埃も掃除して、早く冬支度を整えなければ! 半纏だけでしのぐのは、もうそろそろ限界じゃ。(もはや、香水以前の問題)
 
 前回の日記(の日付)から、もう1ヵ月も経ってしまったぞよ…。
 なんですが、旅行での出来事を思い出したので、ちょっくら書いてみます。
 
 
 たまたま旅先で出会った人が、手相を見てもらっていました。
「この先、仕事はどうなるでしょうか?」
とか、
「私は結婚できますか?」
とか。
 
 別に、そこまではよかったのです。しかし、そこからが問題。
 そこでついでに、私も見てもらおうかな、ということになりまして。(こういう軽い気持ちがよろしくない)
 で、私の時も、先の「結婚云々」の項目が、何故か自動的に(独身だからか?)含まれたんですよ。
 その時になされた診断は、以下の通り。
 
「ん、結婚でき…うーん、でき、できる!」
 
 何だか随分と、歯切れの悪いお答え。
 その変な間は、一体何なのだろう…。どうして言い淀むんでしょうか?
 
 というわけで、判定結果そのものよりも、むしろ、その過程のほうが気になってしまったのでした。
 私は特にそういう願望は抱いていないつもりでしたが…うーん、ちょっと罪作りな占いだ。
 
 
 あ、ちなみに私、
「あまり人の言うことに耳を貸さず、結局は、自分のやりたいようにやっている」
とも言われました。顔でにこにこと笑っておきながらも、さらっと聞き流している、と(それってあんまりな…腹黒いというか、性格悪そうな)。
 でも、現にこうして思い出して、ちょっとは気にしたりなんかもしているんですが、どうなのでしょうね…?
 旅行中、宿泊先の食堂のテレビで報道番組を見ながら朝御飯。
 ここ数十年の、近所の国との出来事について議論がなされている。
 どうやら、番組の主張としては、当事者の方々にこの国に戻ってきてほしい、というものであるようだった。
 終盤にさしかかった頃だろうか、司会者が、総括らしきものを口にする。
 
 聞いた途端、ぎょっとした。一体何を言い出すんやこの人は、と耳を疑いそうになった。
 
 
「(あの方々に)日本に帰国して、そして、日常生活を営んでもらうということ、それが大切です。そして、ひいては納税をも、ちゃんとしていただく、と。」
 
 細部は異なるやもしれない(言葉の言い換え・剥落などが多分にありそうだ)が、大体、こんな感じの内容だった。
 特に、「納税」の部分は確実である。それこそがまさに、私が衝撃を受けた箇所だったから、忘れようもない。
 
 
 
 私自身は、国家の情勢をとやかく言えるほどの立場ではないのだろう。不勉強ということと、一人前には「国民の義務」を果たせていない、ということの、両方の意味で。
 例えば、こういう私を、「ごくつぶし」だの「国家のお荷物」だの何だのと言って罵るのなら、それはそれで仕方あるまい、とは思う。何と世智辛い、冷たいことを…と嘆く人もいるが、そういう世の中だ。
 
 
 だが、相手は20年以上、国外で特殊な環境におかれていた人なのだ。そういう人に対して、いきなり税金税金と急き立てるのは、あまりに酷だ。別の国での暮らしに移行することだけですら、大変なことに違いない。ましてや、生活の糧を得ようとすれば、尚更困難があろうかと思う。個人の単位からすれば、四半世紀の歳月は、新たな生活習慣などに馴染むには、長すぎるのだから。
 
 
 かの国の状況云々は、勝手ながらここではさておくとする。しかし、彼らを「迎え入れよう」としているこちら側としては、まずは、「自分たちのところで暮らすほうが、絶対によいに決まっている」などという考え方を信じ込まずに、ちょっと首を傾げてみてもよいのではなかろうか。少なくとも、納税を「国民の義務」として、半ば強いるようにして彼らにまで示しているうちは。
 そこまであこぎに取り立てる国が住みよいところだと、果たして自信を持って言えるのだろうか?
 
 
 某クイズ番組の「博士」役を務める4人のうちのひとりである、この司会者の彼にとっては、何気無く口にした一言、だったのかもしれないが。
 何気無いからこそ、思いがけず本心がぽろりとこぼれ出るものかもしれないな、と感じたひとこまだった。
 

温泉旅行

2002年10月12日
 本当はふたり旅でぬくぬく温まる筈だったのだが、ふられたので急遽独り旅に変更。
 
 しかし、特に淋しくはなく、それはそれで楽しかった。単独行動が、あまり苦痛ではなく、むしろ結構好きなほうかもしれないな、と思った。それに、何人か、旅先で声を掛けてくれた人もいたので(皆同性だし、色っぽい意味ではない。その点では気楽)。
 …なんて言ってしまって、薄情な私でごめんよB子ちゃん(今度体調が良いときに一緒に行きましょう。…本人ここ見ていないけれど)。
 
 それにしても、1日に2回も風呂に入るなんて、久々のことだった。そのせいかどうかは知らないが、またもや鼻血再発。なんでだろう…湯船に浸かる前だったというのに。
 
 
 この旅行では色々ありましたが、それはまた、後日の日付で。

寝耳に水

2002年10月9日
といっても、ノーベル賞ではなく、鹿のふん氏である。
 やれやれ。
 
 
 彼から不意に、メールが届いた。
 私のこの日記を発見し、過去のものも読んで、謝りたく思ったのでメールを出した、とのこと。
 
 
 うーん、ついに見つかったか…。
 もちろん、ネット上にあるものだから、不特定多数の人に見られる可能性があるのは重々承知。
 だが、当の本人にあれらが読まれたのかと思うと、ちょっと決まりが悪い。まあ、あの当時はかなり気分を害していたから、あれはあれでいいか、とも思うけど(いいのか?)。見られて困るようなものを書くな、とも思うし。
 
 
 しかし、ここで私も、「直接本人に言えばよいようなことを他にぶちまける」というのをやらかしてしまっていたのかもな…と少々反省。とはいえ、彼は仮名で登場しているし、不快感を一応は(初めは遠回しではあったが)伝えていたので、事情は違うのだが(と、早々の自己弁護)。
 
 
 それにしても、あれほど色々と書き殴られておきながら、何故に彼は私と接触を持とうとするのかが、私には不思議に思えてならない。
 そこで、理由を幾つか考えてみた。いずれも、私のただの推測である。

1)猫またぎは近頃弱っているようなので、ここで一気に痛めつけてやろう。
2)マゾなので、逆に、もっともっと、苛めてほしい。(笑)
3)閑なので、ただの時間潰しをしてみよう。
 
 ざっと思い付く限りでは、こんなもんでしょうか。
 あり得そうなものとしては、1か3。でも意外に2だったりして(こら)。
 
 
 まあ、どのみち、私からリンクを貼り返すつもりはありませんが、悪しからず。
 私の知る限りでは、ここ(DiaryNote)は、よいところだと思われます。ですから、他の方の日記にもリンクを貼ったりして、ここを楽しまれるとよいと思います。
 いずれにせよ、私の知ったことではありません。私は私で、今まで通り、自分の気の向くがままに、好き放題書いてゆくだけです。
 
 
 
 
 そして、この失礼かもしれない呼称(「鹿のふん氏」)を変更する気は更々無い私。
 
 数年前に、私がひどく落ち込んでいた頃、彼女は不意に、こんなことを言った。
 
「猫またぎ、ゆくゆくは、私と一緒に老人ホームに入ろう」
 
 聞いた時には、一体何を言い出すのか、と首を傾げた。
 そんな未来のことは、考えられない。すぐ先のことすら、考えられないというのに。
 どういう意味なのだろうか? と、暫し考えた。
 そして、それは多分こういうことかな、と思った。
 
 この先、うんと年老いるまでには、どんなことが待ち受けているかはわからない。現に今(当時)、身動きしづらいような状況に陥ってしまっている。
 けれど、最終的には、身を寄せ合うことにしよう。そして、若かりし頃の思い出話に花を咲かせるもよし、新たな娯しみを見つけるもよし。
 とりあえず、それまでは、何とかもがくなり、耐えるなりしてみたらどうだろう。私(彼女)は、今は近くにはいられないけれど、行く末には、一緒にいられれば、そうしたい。
 
…と。あつかましい考え方かな?
 まあ、とにかく、そんなところだろう、と(勝手に)解釈した。
 
 嬉しかった。
 
 もちろん、私は老後の設計図を思い描いて、それにしがみついていたわけでもないし、そんなふうに暮らせるなどという夢を無邪気に抱くほど幼くもないつもりだった。
 だが、それでもやはり、嬉しかった。
 現在は別々に行動しているけど、気には掛けているんやで、と言ってくれているようで。
 一緒に老人ホームへ、というのも、その時の私には、何だか妙に新鮮に感じられた。第一線を退いた後の、平穏で楽しい日々。そんな、実態を知らぬ、都合の良すぎる幻想は、恐らく現実逃避だろう。けれど、当時の私としては、それでもよかった。
 こういう励まし方もあるのか、と思った。
 
 しかし、そのわずか数年後が、このザマである。
 終わりなんて、あっけないものだなあ、とつくづく感じる。
 普通の大人ならば、そんなことはとっくに知ることなのだろうが、私は、今まで気付いていなかった(ちゃんと普通の順序を追って成長しなかったのだろうか? そうかもしれない…)。
 
 
 
 彼女へ。
 そういうことは、軽々しく口にするものではありません。
 少なくとも、我が身可愛さが先に立つあまり、言った相手を、その後手酷く痛めつけてしまったりするようならば。
 先のことなんて、誰にもわからないのだから。たとえ冗談めいていて、そして相手も本気にしてはいないにしても…。ともすれば相手を縛り付けてしまいかねないような内容は、やっぱり、今となっては、言ってほしくなかった。
 
 夢の家。気の置けない友人たちと、共に暮らす、理想の形のひとつ。
 それは、思い浮かべるだけならば、気楽で簡単。束の間、楽しい気分に浸れる。
 けれど、それはあくまで夢の話。経済力など、枠組の問題もさることながら、中の人間の度量も要する。実現なんてまず不可能だろうし、それどころか、口に出したという、そのことによってだけでも、危ういものになってしまう。人間関係の風向きなんて、些細なことで容易に変わり得るものだし。それぐらいの認識は、持っておくべきだった。
 
 せめて、そのことぐらいは、自覚しておいてほしい。そして、次の友人には、そのことを敢えて言わずにおくように。同じ失敗を繰り返さないだけの思慮は、あらまほしきものだと、私は思う。
 
 
 …この日記を、彼女はまず読んでいないだろうけどな。読んでほしいとも思わないが。
 
 
 
 
 あ、そういえば、「見果てぬ夢」って、英語では確か、"impossible dream"と言うのだったかな。どこかで読んだ覚えがある。

システムか人間か

2002年10月3日
 前日の日付の話題から飛ぶようだが、一応、続きの話である。
 
 私は、システムに対する信頼がわりと厚いのかもしれない、と自分では思う。国債がただの紙切れになるとは思わないし(まあ、価値が多少下がるぐらいならあり得るかな、とは思うが)、もしもプラットホームで暴漢に襲われそうになったら、必ずや駅員が助けに来てくれるに違いない、と信じている。
 
 しかし、時には、システムよりも人間の方に重きを置いて考えてしまうこともある。
 手紙を例に挙げると。
 自分が投函してからもうだいぶ経つというのに、相手からの連絡が何一つ無い、という場合。
 私がまず考えるのは、実は、郵便事故の可能性なのだ。何かの手違いで、運送過程のどこかで紛失されているのでは。そういう好からぬことを、思い浮かべてしまう。切手を大量に購入している身でありながら、こんなふうに言うのもおかしいけれど。それに、郵政省(*)や、郵便局員・配達員の方々には、大変失礼で申し訳ないし。
((*)今は省庁再編で、名前が変更されたんだっけ。ちゃんと覚えていないけど、まあ、いいか。<よくないが、とりあえず。)
 
 だが、当然というべきか、そんなことは殆ど無い(この国の郵便配達業務は、かなりの正確さを誇っているらしいから)。大抵は、ただ面倒で、そのまま放っておいている、というのが現状のようだ。
 まあ、それはそれで、別に構わない。手紙が来ないからといって、それだけで気を悪くするほどには、私は子どもじみてはいないつもりだ。手紙は、あくまで私が出したいから出す、それだけのものに過ぎない。
 
 
 前置きが長くなったが、そういうわけで、外国に滞在していた(当時)彼女からの返事が無いのも、はじめは、郵便事情が思わしくないからかと考えていた。そう考えるようにしていた。
 しかし、やはり違った。返事が無かったのは、忙しかったから。いや、より正確に言うと、忙しさを口実にして私と離れたがっていたから、なのだ、恐らく。
 
 別に、疎遠になること自体は、さほど悲しくはない。遠く離れた場所にいても、元気でいてくれれば、それだけでいい(とまで言うと、極端かな?)。私のことを忘れ去ってしまっても、それはそれで、ある意味、仕方が無いのかもしれない。
 だが、今回はただそれだけではないから、ちょっと事情が違う。本人の知らないところで話題にしておき、そのまま、いわば「言い逃げ」の形にしてしまったのだから。
 
 誰も、1年も経ってから、あれこれと問い詰めたりなんかしたくない。私だってそうだった。ただ、国外にいるから、日本に帰って来てから聞くことにしよう、と考えてのことだった。
 それなのに、彼女は突っぱねた。国際電話で近況報告をした折に、私がそのことを切り出しかけたのも、タイミングが悪かった、とのことだが(結局、その時点では諦めた)。帰国後の電話でも相変わらず、私を切り捨てた。一見(「一聞」?)した限りでは、正論を述べているように思える。けれど実際のところは、私本人に直接ぶつければよいことを他の人に話した、ということを、うやむやにするような。そのための、高飛車な物言い。そして、私の言うことに耳を傾けようともしない姿勢。ただただ、保身のために。
 
 あなたが言っていないのならば、では何故、私に関する、あなたしか知らない筈のことを、他の人までもが知っているの?
 
 
 
 
 こんな人を信じようとした私が間抜けだったのかな。

友人と喧嘩

2002年10月2日
 どうやら、私にはもう友人でいるメリットが無いらしい。
 視野が狭く、社交性にも欠け、一方的につっかかってくるだけの存在なのだとか。そんな友人っているか?(「居る」なのか「要る」なのかは知らないが。両方かもな…)、とも問われた。

 猫またぎがどう生きようと、猫またぎの勝手。そう言われたが、そんなことは言われるまでもなくわかっている。
 そして、こうも言われた。人の目を気にしすぎなのでは、と。

 実は、ことの始まりは、去年にさかのぼる。
 数年前に、私が世の中と隔絶して過ごしていた頃、異性関係について、事実とは異なる醜聞がごく一部で流れたらしい。
 怒りが収まらず、その発生源を問い質すと、私の旧知の友人だ、というではないか。
 にわかには信じがたかったが、気になるので、本人に直接尋ねてみた。私にはそれしか方法が無かったのだ。

 そして、逆に怒られた、というわけだ。

 今回の話に関しては、彼女と私との間には、何人かの人がいただろう。
 噂というものは、事実とは違うことであっても、さも本当のことであるかように流れてしまう。
 それを、いちいち気にして、犯人探しをするなんて、あほらしい。

 …とのことだった。
 確かにそれはわかっている。しかし、

 今さして付き合いの無い人に何を言われようと、そんなもの、どうでもよいではないか。そんなに人の目が気になるのは、私が今の自分の立場に引け目を感じているからではないか、とまで言われた。

 それも全くなくはない。だが、それとこれとは別問題だ。
 それを、どうして結び付けて言われなければならないのだろうか。隔絶期間中、私の知らぬのをよいことに、色々言われたことは、泣き寝入りしろ、と。そう言うのか。私のような人間は、陰で何を言われても仕方が無い、と言うのか。
 
 私のことを話題にした人たちは、私を心配しているのではなく、ごく軽い噂話を口にしたに過ぎない、と彼女は言う。確かにその通りだろう。刺身のツマ程度のもの。私の存在なんてそんなもの。
 
 
 …書いている間に、混乱しそうになってきた。

 サントリーミュージアム@天保山に、ドラえもん展を見に行ってきた。同行者は、またもやB子ちゃん。というより、彼女が私を誘ってくれたのだが。感謝感謝。
 
 
 展示自体は、中にはよくわからないものあったけど、概ね楽しく見られた。
 
 ただ、この時以来、青いユニフォームを着た人が、どことなくドラえもんっぽく見えてしまう…のは私だけか? 特に、ビジター用。青の分量が増えるから。上が長袖で、下がストッキングを長く出している状態だと、ますますそれっぽく思えてくる。
 
 
 そうそう、この日初めて、ドラえもんの生年月日を知った。忘れないうちに書いておこう…と思っていたのに、既に記憶が薄れつつある私。1ヵ月も経ってから日記を付けるのが元凶なんだけど。
 
 ドラえもん :2112年 9月4日
 ドラミちゃん:2114年12月2日
 
…だったような気がするのだが。違ったかな。まあ、どうでもよいことだけど(本当にな…)。
 
 ちなみに、B子ちゃんは、
「何故ドラミちゃんは、あんなに装飾過多なん?」
という疑問を抱いたようだ。確かに、耳の代わりにリボンを結わえ、ポケットは多色づかいの格子柄、おまけに尻尾は赤い球(←これは兄)とは違って花だけど。言われてみればそうだな、なんでだろう?
 
 一方、私は私で、
「何故しずかちゃんは、水戸黄門のかげろうお銀並に風呂に入ってばかり(シャワーの時もあるが)いるのだろう? しかも昼間から(のび太くんたちが草野球やら何やらにうち興じている時間帯だぞ…)」
という疑問が拭えない。うーむ。
 
 どっちもどっち、か。
 
 
  
 どうでもよいついでに、もうひとつ。
 ジャイアンの妹の本名は何なのでしょう…。ジャイアンには、剛田剛という立派な名前(「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山」みたいだけど)があるのに、彼女は単に「ジャイ子」とだけ表記されている…名前が無いなんて、ちょっと不憫だ。
 友人B子ちゃんと一緒に、后妃エリザベート展@京都伊勢丹、を見に行ってきた。
 
 彼女は、自分が私を無理に巻き込んだのだ、などと冗談めかして言っていたが…。しかし、それはただの取越苦労である。元々出不精の私は、自分から遠出をすることは少ないので、彼女からの誘いは喜ばしい限り。気が向かなければあっさりと断るので(薄情なやっちゃ…)、心配無用。…多分、彼女はこの日記を見ていない(と思いたい)のだが。
 
 ともあれ、そういうことで、誘いにはホイホイと乗る。やれ、ありがたや、ありがたや。
 
 
 しかし、展示が突っ込みの対象に見えてしまうのは、関西人の悲しき性でしょうか。
 特に、気の置けない友人と共に見ていると、遠慮もどこへやら、思ったことをばんばん口にしてしまう。…のは、私(とB子ちゃん)だけ?
 
 いや、そうでもなさそうだ。肖像画を見て、知らない女の人が一言。
「よう肥えてはる」
 つい笑い転げそうになってしまった。確かに、二の腕やなんかは結構むちむちっとたくましかったけど…そんなこと言わんでも。展示を見ての感想としては、ちょっと、なあ。

 部屋の中に閉じこもらず、乗馬などもこなす活動的な人だった、という意味で「野生児エリザベート」という記述を幾度か目にしたので、
猫「なんや、野生児って言うから、どんなんかと思ったら、コルセットしてたんかー」
B「そら、昔の姫君やもん、それぐらいしてるやろ」
猫「えー、私、てっきり、狼に育てられた少女みたいな姿を思い浮かべてたわー」
B「そんなわけないやろ…」
 …確かにそうだな。しかし、コルセットを締めた野生児って、その表現自体、間違っているような気がするが。

 金糸銀糸(だったかな?)で豪華な刺繍が施された上着にいたっては、
B「今時こんなん着てたら、一体どこの演歌歌手やねん、って感じやな〜」
猫「そうやな、着ていくとこ無いし。ちょっとそこまでゴミ出しに〜、っていうわけにもいかへんしなー」
などと言う始末。
 
 
 すみません、王室関係の方々。でも、楽しかったです(こらっ)。
 

良きもの?

2002年9月12日
 小ネタをひとつ挿んで、和らげておこう。
 …いや、別に、次の日記にえげつないことを書く、というわけでもないけれど(多分)。
 
 
 ある時、街で専門学校の看板を見掛けた。
 何の学校かな? と思って見た先には、「良きもの」との表示が。
 
 …よきもの?
 よきものって、何?
 一体、何を以てして、「よきもの」とやらを定義するのだろう?
 
 などと、一瞬考え込みそうになったが、看板に近づいて、自分の勘違いに気付いた。
 
 頭の「奈」の文字を見落としていました。

 天災ではありません。
 鹿のふん氏(仮名)です。
 
 この日記を読んでいる皆さん(というほどの数なのか?←自虐や…)も、多分忘れていることと思います。
 というのも、当の本人である私自身が忘れかけていたのですから。
 何せ、最後に連絡が来たのが、3月中旬でしたし…。
 
 で、その約半年後の現在、バレンタインをめぐって一悶着あった彼から、宅配便が届きました。
 
 
 プロ野球チップス一箱。
 
 
 貰っておいて言うのもあつかましいかもしれませんが、かなり時期外れだったので、戸惑いました。
 しかし、くれたこと自体に関しては、礼を言うべきだ、とは思いました。月日の過ぎゆくのに任せて約束(と呼べるほどののかどうか…?)を反故にしたりはせず、一応は守ってくれたのですから。
 メールではなく葉書を出そう、と準備をしていたところ、彼からメールが。
 到着したかどうかの確認でした。
 
 そんなに気になったのでしょうか。確かに、受け取ってから数日は、何もせぬままに経過していましたが。
 相手には半年待たせておいて、一方、自分は一週間すら待てないのでしょうか。
 
 
 …などと意地の悪いことは言わずにおき、葉書の文面だけ簡潔に無難に整えて投函しました。
 
 
 
 もしかしたら自分も、これほどまでではなくとも、似たようなことを他でしでかしているやもしれません。いや、恐らくしているでしょう…。人間って勝手なもので(こういうところで一般化して責任逃れをするのも悪いですが)、自分がされたことはしつこく覚えていても、自分がしたことは都合よくけろっと忘れてしまいがちですから。
 これを他山の石としよう、と改めて思った一件でした。
 
 
 彼とはもう、メールのやりとりはしたくありません。少なくとも、彼が適度な距離を保とうとしない限りは。自身の淋しさを紛らわすためだけに利用しようとする限りは。
 
 (3の続き)…というようなことを、会った時に、彼に言ってみた。
 私じゃなければならない理由などあるのか、あるとすれば何なのか、と問うてみる(こんな質問自体、無意味かもしれない、と知りつつも…)と、
「時間じゃないかな」
という答えが返ってきた。
 つまりは、今まで一緒に過ごしてきた年月、それによる親しみ、ようなものらしい。
 
 そうか。
 では、また新たに、別の人と、その「一緒の時間」とやらをつくってゆけばよいではないか。
 何も、相手は私でなくとも、不都合などはありますまい。むしろ、こんなこうるさいことを言い出さない人であれば、私なんかよりもずっとずっと手がかからず、楽でありましょうに。
 …こう考える私って、冷たい人間なのだろうか。
 
「俺は、付き合っている間柄では、『無償の愛』(そんなものがあるのかどうかは知らんけど)とでも呼ぶべきものが必要だと思う。で、俺の側としては、この数年間で、それを持って接してきたつもりやねん」
 
 さようでございますか。…無償の愛って何?
 私にはよくわからない。私は、そんな漠然としたものよりも、実際の接触のほうが欲しい。
 そんな、腹の足し、じゃなかった、肌の足しにもならないような理念の愛情なんて、説いて欲しくない。そんなことを囁かれたって、嬉しくない。随分と傲慢に響くやもしれないが、私は実感が欲しいのだ。甘い言葉よりも、まずは人肌の温み。
 無償の愛だなんて、耳当たりの良い言葉で誤魔化されているような気すらしてくる。それによって、都合よく繋ぎ止めて(というか、「確保」して)おこう、とされているように感じてしまう。
 私って、そんな言葉ひとつで簡単に機嫌をよくするように見えていたのだろうか、とまで勘繰ってしまう。
 確かに私はあまり夢の無い人間かもしれないが、少なくとも、そんな言葉で相手の気を引こうとは思わない。自分の実感の湧かない言葉を口にして、歯の浮くような思いを味わいたくない。
 実際にその「無償の愛」とやらがあるに越したことはなかろう。だが、それを受けている幸福、その実感が相手の側にも伴わなければ何ら意味が無い、と私は思う。
 
 そして、また新しい相手が見つかるのだろうか、と自分の心配ばかりする私に、彼も腹を立てたのだろうか、ついにこう言った。

「それでは、相手は誰でもよいということなのか。ならば、猫またぎは、無料のソープランド(*)を求めているも同然」
と。

(*)ここでは多分、風俗営業全般を指して言ったのだろうと思われます。客が自ら店に出向く、とは限らないので。
 
 
 そうか。言われてみれば、そうかもしれない。
 直接的な快楽の世界を求めているわけではないが、思考回路に大差は無さそうだ。
 私が時折夢想する、「宅配添い寝業者」がその最たる例である。
 宅配添い寝業者。電話一本で気楽に呼び出せて、文句ひとつ言わず添い寝をしてくれて、こちらの要望によっては、様々なオプション追加(「枕を交わす」に限った話ではなく、寝覚めの緑茶を淹れてくれたりとか、そういう、些細なこと)なんかもしてくれて。私(の身体)の残酷な品定めなんて、もちろんしない。間抜けな寝顔やなんかを笑いものにしたりもしない。そして、後腐れなく楽しめる。金の切れ目が縁の切れ目、のそんな都合の好いものがあれば、たとえ一時にせよ、よい気慰みになりそうだ(それとも、その人が帰った後には虚ろな気分が残り、淋しさが益々つのるかな?)。…人聞きは悪いだろうが。
 それを、恋人という相手に無銭で求めている、というだけのことなのだ、私は。
 
 と、私の頭の中には、そういう、あまりよろしからぬ空想があったりもするので、彼の指摘には反論出来なかった。ぐさりと突き刺さったけれど、本当のことかもしれないし。
 
 彼自身は、言った後、後悔していたようだけど。
 でも、言ってしまったものは取り返せないのだ。
 
 表に出たものだけが、相手にとっての全て。

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