私は生まれも育ちも現在の住まいも関西だからか、話す時には結構こてこての関西弁を使う。
 だが、その一方、例えばこの日記でも、書く時には基本的に方言を抜くことにしている。
 というのは、そのほうが意味が間違いなく伝わりやすいし、方言使用による変な先入観の影響を受けずに済みそうだからだ。それこそが、標準語(とされるもの)の存在意義である。
 もちろん、例外はある。発言や会話文の引用、それに心の中での呟き、あるいは茶化したりする場合など。後者では逆に、色眼鏡の効果を狙っている、とでも言うべきか。(上手く行っているかは別として。それと、たまには、単に気分で使ってみる…なんてことも、あったかもしれない。)
 
 
 だからなのだろうか、テレビやラジオなどで関西弁を話す人を見る(聞く)と、
「あー、あの人、めっちゃ関西弁やわー!」
と口にしてしまう。(但し、お笑い芸人は除く。彼らの場合は、一種の職業的な言語と捉えているのかもしれない。)
 傍に人がいれば、必ずや、
「あんたもそうやろ、あんたも!!」
と突っ込みを入れられるに違いないが。関西弁に過剰反応する関西人・猫またぎ。きっと妙に思われるだろう。
 しかし、メディアを通した方言というものは、それぐらい、少なからぬ違和感を伴って、聞く者の耳に響く、ということだ。
 
 
 それはまた、書き言葉に関しても同様である。
 以前、地の文すらも一貫して関西弁で通した本を読んだ時、正直言って、どうにも気持ちが悪くなってしまって困った。あまりの気持ち悪さゆえ、読了を諦め、途中で投げ出した程である。
 京都出身・在住であるというその著者は、京言葉で文章を綴っていることが誇りであるらしかったが、私は首を傾げてしまった。そんなもの、別に大したことでもあるまいに。しかも、短いプロフィールの欄を割いてまでして、わざわざ言うようなことか?
 
 せめて地の文ぐらい、「標準語」にしてほしいのになぁ…と思わずにはいられなかった。普段の会話では関西弁を用いる私ですら、文字の世界でそれで語られると、猛烈な気持ち悪さを覚えたのである。だから、ましてや他の地方の人からしてみれば、どうなのだろう…? とも考えた。(それとも、不快に感じる感じないは、単に個々人の好みなどの差によるものなのか?)
 先に用いた表現で言うならば、「標準語」は、アナウンサーや文筆家の「職業言語」だと思うので。
 
 
 ともかく、そんな私は、いわば「方言バイリンガル」状態、なわけである(私に限らず、多分、他の人も)。話し言葉と書き言葉の使い分けは当たり前。それが日常なのだ。
 
 もっとも、後者で得られる偏りの無さを前者にも欲するとなれば、両方とも「標準語」にすればよいのかもしれないけれど…。でもなぁ…うーん。(少なくとも今のところは、そこまでする気は無いのである。)
 
 

「18歳未満お断り」

2003年3月15日
 B子ちゃんの知人が、Web上で、自分のページを持っている、という話を聞いた。
 そこの注意書きのひとつに、上記のようなものが掲げられているそうな。
 別に、刺激的で倫理的に問題がある、というわけではないらしい。
 その意味するところは、つまりは、
「子供は来るな」
ということだとか。

 
 
 B子ちゃんの説明によると、
「子供じみた振舞をされると、目障りやん。だから、予め断っておくんやって」
と。
 なるほどね。
 何も、実年齢だけで行動様式が決まるわけではないけれど、確かに、中高生ぐらいの年代では、まだ幼いなぁ…と思うことも少なくない。
 そう言っている私自身も大概、幼いのかもしれないが、でもやっぱり、そう感じてしまうことはあるのだ。
 
 
B「それに、そのぐらいの歳の子って、よく、
『日記だけは頑張って欠かさず更新してま〜す』
なんて、嬉しそうに書いていたりするけどさー。
 他人の日常をのんべんだらりと綴ったものなんか読まされたって、別に誰も、大して楽しくもないっちゅうねん。そんなんで威張るなよ、って言いたくなるわ」
 
 
 …確かに。私もそう思う。
 いや、日記を書くということ自体は各々の勝手だし、個人的な楽しみに何ら文句を付けるつもりも無いけれど。
 でも、そんな、殊更に主張するほどのことでもあるまいに。<毎日更新
 量より質! などと偉そうに言えた立場ではないが(というのは、私の場合、両方が欠けているから)、ただ更新さえすればよい、というものでもなかろう。
 
 
 私も気を付けようっと。
 歳はもう大人なのに、中身は子供…なんてことに、ならないように。
 客観的な視点が養えればいいなぁ、と思うのだった。
 
 
 歯医者の話の続き、というか、第2弾。
 ただし、歯医者以外の話も多分に入っています。
 
 
 歯の定期検診の際に、以前は大抵、
「はい、口を大きく開いて下さい」
と言われた後に、
「あ、目は別にいいですよ」
と付け加えられてしまっていた。
 どうやら、無意識のうちに、口と一緒に思いっきり開けてしまうらしい。
 なので近年は、診察の時には、あまり目を見開きすぎないように心掛けている。
 …でも、不安なのでまぶたを閉じはしないけど。(先生への心配がそんなにいっぱいでいいのか、私?)
 
 
 そういえば、目薬を差す時には、何故か口をあんぐりと開けるのも、昔の癖だった。
(実を言うと、私は幼少の頃は、目薬点眼時に限らず普段から、ぽかんと口を開けがちだったのだが。)
 これも、見た目が間抜けなので、最近は気を付けるようにしている。
 
 
 なんか…目と口が連動しているみたいで…。
 それって、糸(てぐす)で吊って、もう片方を結わえ付けた棒切れで動かしている、あやつり人形みたいだ、と思ったのだった。
 
 
 人間なんだから、少しはきりっとしようっと。
 …せめて、ぱっと見だけでも。
(1の続き)
 
 まぁ、そういうことなので、この「証明書を贈る」というのは、感染症のはびこる現代では、なかなか捨て難い案だと私は思うのだが、どうだろう。
 
 
 なお、次点としては、避妊具が候補に挙げられる。事実、とあるお笑い芸人がそう言っていた。もっとも、彼の場合は、テレビでの発言だから、受け狙いの要素も多少はあるだろうが…。
 彼の発想も、それ自体が悪いとは決して思わない。(「消え物だから」との弁には、我知らず笑いを誘われたけど。確かに、必ずしも形に残るものでなくてもいいよな〜、別に。)
 だが、そう思う一方で、あまり気が利いていないなぁ、という感想も否めなかった。
 というのも、彼としては、
「誰か他の人と楽しんで下さい」
ではなく、
「僕と一緒に使いましょう」
との意図を込めて贈るのだろうし。ならば、贈り物としての価値で言えば、証明書の方に軍配が上がる。
 
 もちろん、両方があらまほしきものではあるが、オーラルの場合なども考えると、検査無しでは、病気予防策としては精度が落ちる。完全な方法なんぞ、そもそも無いのかもしれないけど…。(しかし、こういうところで、具体的なことを書くのも、もしかして野暮なんだろうか…?)
 それに、要る時には、じゃんけんで負けた側が買いに行けば、それですぐに済むものなのだから。
 どうせ贈るならば、手軽に購入できるゴム製品ではなく、手間を面倒がらずに証明書作成を選ぶほうが、受け取る側からすれば有難いのではないかなぁ、と私には思える。
 
 
 もし必要とあらば(=逆に、相手から求められたのならば)、私なら応じる。ひいてはそれで、自分の健康も守られることになるのだろうから。
 
 
 甘い囁きや、高価な宝飾品や何かばかりが全てではない。(それだって、必ずしも悪いと言っているわけではないが。)
 この「証明書」、色気に欠けるという点でこそ、多少難があるといえばあるけれど…。
 でも、見方によっては、それこそ、
「世界でたったひとつだけの、素敵な贈り物」
になるのではなかろうか?
 私なら、もし憎からず思う相手(しつこいようですが、現時点では架空の存在です(笑))からそういうものを見せられたら、きっと喜ぶぞ。
 そして、勢い余って、そのまま寝技に持ち込むかもしれないぞ。(品の無い冗談を飛ばすのは、やめましょう…)
 
 
 …と、ともかく。
 「3倍返し」だなんて世智辛いことは言わない。でも何か、実質の伴ったものが欲しい。
 相手の健康を気遣っているということで、陰性の証明が、それ即ち、「愛の証」(とかいうもの)にもなると思う。
 いかがでしょう?
 
 
 あ、でも、その日はもう明日に迫っているから、もう遅いか。今から準備するのでは、到底間に合わない。
 ならば、来年の同日に、…いや、来年まで待たなくとも、そういう特別な日に限らずとも…、機会があればいつでも、是非どうぞ。
 
 
 …こんな私が変なのか?
 いや、現実に浮いた話の一つも無い状態で、こういったことを考えている、というおかしさはさておいて。
 考え方そのものが。
 
 
 うーむ。
 
 明日は、1ヶ月前のイベントの返礼をするとされている日、である。(これを書いている今は、13日なのだ。)
 一体何を贈ればよいのか、悩んだ男性も少なからずいるに違いない。
 そう思うのも、実はこの私自身が、異性への贈り物選びを極めて苦手とするから、である。
 しかし、考え直してみれば、贈る相手が存在する、ということは、幸せなのかもしれない。そういう意味では、贅沢な悩みと呼べるだろう。(いや、別に、独り者が僻みや嫉みで言っているわけではないので、誤解の無きよう。)
 
 
 …そこでひとつ。1ヶ月前に、好きな人から贈り物をされた、そんな幸せな方々に、この場で私から提案をしてみよう。(但し、以前から既に相思相愛の間柄の人たちには適用されない。)
 
 
 お返しとして最適な品、それは、
 
  病院の証明書
 
である。つまりは、
「自分は性病に罹っていない」
という事実を、医療機関での検査を通して、相手に対して明確に示す、ということである。
 
 
 何故いきなりこんなことを言い出すのかというと、
「最近、性感染症が異様に流行している」
という話を耳にして、多少、不安を覚えているからである。
 だから、もし仮に、ちょっと気になる男の人がいたとしても(いないけど(笑))、そういう心配がちらっと頭をよぎると、そうそう近寄ることもしにくいなぁ…などと考えてしまうのだ。
 
 
 こんなふうに思い巡らせるのは、もしかしたら、私がひどく心の狭い人間だから、なのだろうか?
 確かに、そのことは完全には否定出来ない。はっきり言ってしまうと、割を食いたくないのである。
 
 一応、念の為に書き添えておくと、ここでは、薬害による感染者などについては、もちろん含まない。本人の不手際ゆえのことではないのだから。よって、話を進める上で、問題の対象外として、さておくことにする。(差別的な意図は無いので、悪しからず。)
 
 でも、もしそうでないのなら…言い換えれば、当人の不品行が原因での病気感染であるのなら…、
「どうして私が、他人の過去の、自分とは何ら関係の無い行いの結果を、分かち合って引き受けなければならないのだ?!」
と、つい言いたくなってしまうのだ。
 別に、どこぞでせっせと種馬業務に励むのは、基本的に各々の勝手である。(とはいえ、気分的には好ましく思えない、ということは、わざわざ書くまでもないけれど。)…あ、いかん。こんな書き方をするのは、失礼かな。種馬に対して。
 だが、そのとばっちりが我が身にも降り掛かるとなれば、そんな呑気なことばかりを言ってもいられない。
 
 
 …あぁ、本当に、何と心の狭い。今、自分でここまで読み返して、つくづくそう思う。
 しかし、だからといって、考えを変える気は更々無い。たとえ、
「俺を好きなんだから、別にいいだろう? そんなことなんか。俺のことを信じてくれよ」
などと言われたとしても、真っ平御免だ。そんな物言いは、相手の信頼を都合よく手玉に取ろうとしているに過ぎない、とすら思っている。あるいは、相手からの愛情を楯にして、自分にとって有利になる条件や、相手の譲歩・妥協を引き出そうとしている、とでも言うべきか。
 
 
 そんな愛なら、私は要らない。
 そして、どこかの誰かさん(苦笑)のように、無償の愛とやらを説くつもりは無いし、そんなふうに言われたくもない。
 幸いにして、今までのところは、性病関連で痛い目に遭ったことは無いが、これから先も、罹りたくない。現在の健康を保持したい。
「身体のあちこちにガタがきている状態で、どこが健康なんだか」
という突っ込みを受けてしまいそうだが…少なくとも、性的な面での「健康」(=ここでは、陰性のことを指す)は損ないたくないのである。
 
 
 とはいうものの、
「ならば、尼僧のような生活を送ればよいではないか」
と言われても、ちょっとなぁ…と思ってしまう。煩悩も程々に持っているし、娑婆への執着も捨ててはいないので。だから、決して対岸の火事ではないのだ。(もし他人事だとしても、高見の見物を決め込んでもいい、と思っているわけでもないけれど。)
 
 
(2へ続く)
 リンクの方の日記で思い出したのだが。
 
 私は、歯医者では、治療中も「目を開ける」派、である。
 というのも、そこの若先生が、ほとんどいつも、歯科衛生士と談笑しながら診察するから、なのである。

((*)私がお世話になっている医院では、近頃、彼の息子も歯科医になり、診察に当たっているのである。で、先生がふたり、という状態なので、区別のために、父親を「大先生」、息子を「若先生」と呼んでいる。
 で、失礼ながら言ってしまうと、この若先生がボンボン(=坊っちゃん)らしく、私にはどうも、頼りなく感じられてしまうのだ。)
 
 しかし、こちらは口に指を突っ込まれている状態なので、思うように意思を伝えられない。
 だから、私も遠慮などかなぐり捨てて、
「しっかり見てや!!」
と言わんばかりに、目に力を込めて、先生の目をぎろっと見据える。視線で訴えかけているつもりなのである。
 …つくづく、嫌な患者であろう。自分で読み返しても、そう思う。
 でも、目を瞑っている間に、何かわけの分からない処置をされたり、失敗を誤魔化されたりしても困るしなぁ、と思ってしまうのだ。
 そういうわけで、
「先生をじろじろ見るなんて、失礼でしょう」
との意見をものともせずに、私は目を閉じないままにしている。口で物を言えないぶん、目を当てにしている、というわけだ。
 
 
 先ほど、「若先生が頼りないから」と書いたが、よく考えてみると、昔から、大先生に見てもらう時にも、同様に目を開けていることを思い出した。(大先生も、喋りながら診察する時があるのだ…。)
 もうかれこれ、20年来の習慣である。
 
 …これってやっぱり、私の性格なんだろうか。
 

あいたたた

2003年3月10日
 お久しぶりです。
 3月に入ってから、殆ど日記を書いていませんでした。
 その間何をしていたかというと、車の運転の練習やら何やら、色々(というほどでもないか)あります。その時のことは、また追い追い書いてゆきたいと考えています。
 
 
 しかし、今は無理です。
 腹痛がひどくて。
 1時間ほど前に薬を飲んだのですが、効く気配は未だに表れておりません。
 ううう、なんでやねーん!
 …などとわめいても、身体が言うことを聞いてくれないのが辛いところです。
 
 とりあえず、今日のところは、帰ってきました、ということで。
 
 

ちょっくら

2003年3月1日
 一昨日(の日付の分)と同じく、先に秘密日記を書いてしまおうという作戦。
 
 しかし、本文追加の予定は未定。
 
 というわけで、大和文●館へ初めて行ってきた。
 
※大和文●館:近鉄沿線にある美術館。「知られざる花の名所」らしい。伝聞なのは、私は行ったことが無かったからである。というわけで、今回自分の目で確かめるべく出掛けた、というわけだ。
 
 今回もいつもと同様に、単独行動である。
 行く前に、近くに住む友人を、ダメモトで誘ってみたけれど、やはり無理とのことだった。
 そりゃそうでしょうな。当日になってから言い出したんだから。というのも、今回の文●館行きを私が決めたのは、その日の朝の晴天を見てからのことだったので…。
 だって、雨の中を出掛けるのって、億劫だし。そうじゃないかなぁ。ましてや、急用や事務的な用件以外なら、尚更のこと、
「何も今日出掛けなくてもいいや、また今度、機会を作ろう」
と思ってしまう。少なくとも、私はそうなんだが。
 それにたまたま、自分の予定も空いていたので、丁度いいや、と考えて。
 
 …まぁいいよ、うん。独りには慣れているし。
 
 
 最寄駅から徒歩で現地に向かう。10分ほどで到着。
 門の中に入ると、庭の一角に梅園が見えた。
 
 まだ満開とまではゆかないが、紅白織り交ざってきれいに咲いていた。しばし見とれる。
 写真を撮っている人もちらほら。私も彼らに倣って、というわけではないが、花をフィルムに収めたくて、カメラを片手に木の下をうろつく。
「根元の辺りの土をあまり踏みつけすぎたら、木が弱るからいけない」
という話を思い出し、なるべく負担を掛けぬようにそーっと歩きつつ、シャッターを切っていた。
 
 
 その後、梅の小道(というのがあった)辺りをぶらぶらと歩く。
 花の色が違う枝を接木してあるなど、なんだか妙に凝ったものも。
 
 
 それから、館内展示へ。
 …ごめんなさい、もっと大規模なものを想像していたので、正直、内心ちょっとだけ拍子抜けしました。
 で、でも、だからといって悪い、と言っているわけではありませんので…(もごもご)。
 まぁとにかく、私としては、一番見たかった螺鈿細工をこの目で確認出来たのでよかったです、はい。
 
 
 展示品のポスターと葉書を買い、再び庭へ。
 通りすがりの人が、私の入った写真を撮るべく、私のカメラのシャッターを切って下さった。連れがいないということは、気楽という点ではよいのだが、こういう時は、誰かの親切を得られると大変助かる(ずいぶんと身勝手な言い分だろうけど)。やれ、ありがたや。
 
 
 
 この日入手した情報。
 
・同じ奈良県北部の平地でも、梅の咲き具合は、微妙に異なるらしい。大和文●館のほうが、奈良公園の梅林よりも開花が早い、とのこと。
 
・今は桜の頃よりもだいぶ静からしい。梅は桜に比べると、あまり人気が無いのか? 良い香りも漂うし、梅には梅の良さがあるのになぁ。あ、でも、酒宴の喧騒などには見舞われないから、比較的人気薄なのも、それはそれで副産物としての利点にはなるかも。(いや、そもそも、美術館の庭で宴会は行われないだろうけど。)
 
 
 
 そして、この日の発見。
 
 実はその後、近くにある別の美術館まで足を伸ばしてみた時(結局、休館で入れなかったが)、同じく見に来た、旅行者と思しき二人連れが。
 言葉から察するに、どうやら、彼女らふたりは日本人ではなさそうだ。アジア系の顔立ちとあわせて考えると、多分、中国か韓国あたり(というのは、私はどちらの言語も知らないので、よくわからなかったのだ)。
 それは別にどうでもいい。問題はその次。
 折角だからと思い、私は彼女たちに、
「もしよろしければ、おふたりでの写真を撮りましょうか」
と問うてみた。…言葉が出来ないので、身振り手振りで。
 すると、一体何を思ったか、
「私(猫またぎ)と一緒に撮りたい」
と言い出されてしまったのである(同じく、身振り手振りで)。
 驚き、動揺しながらも、結局、応じていたのであった。
(それから、彼女らふたりのも撮ったけど。)
 
 …な、なんで、なんで初対面の私と?
 もしかして、…和服姿だったからか?
 他に思い当たるふしは、これといって無いので…。
 本人が考えていた以上に違和感を放っている、と言うか、変に目立っているのか? と思ってしまった出来事だった。
 
 
 
 更に、この日一番笑ったこと。

 夕方、普段からちょくちょく覗く雑貨店に、ふらりと立ち寄った時の話。
 洋服を手にとって見ていると、いつもならば、
「どうぞ、ご遠慮無く試着してみて下さいね」
と言われるところを、今回に限っては、
「ご遠慮無く試着…は、今日は無理ですね」
と、途中で言い直された。
 まぁ、それは確かにそうやな…(笑)。
 

本日は晴天なり。

2003年2月27日
 というわけで、出掛けて疲れたので、今日は秘密日記のみ。
 あぁ、くたびれた。よっこいしょ、っと。(何とも、老けた掛け声や…)
 
 
 ちなみに、豆知識というほどのものでもないけれど。
 よくマイクのテストなどで使われる、
「本日は晴天なり」
の文句は、実は、英語圏でのマイクのテストで、
"It’s fine today."
という文が用いられていたから、という話を聞いたことがある。というのは、その文に含まれている発音が、マイクがちゃんと機能しているかどうかを確認するのに適切だったから、だそうな。(本当かどうかは知らないが<伝聞なので…)
 だから、それを日本語に訳して言っても、さして意味があるとは言い難いらしい(極端な不具合が分かることやなんかは別として)。
 
 
 この話、もし間違っていたら、ご指摘下さると幸いです。
 
 
 …あれ、秘密日記だけのはずじゃなかったのか?
 初めはそのつもりだったんだが…。

 きっと誰もが、一度は耳にしたことのある文句。
 
 
 これ、実は、続きがあるらしくて。
 全部通して言うと、

「馬鹿の大足、間抜けの小足、
 中途半端のろくでなし」
 
なんだそうな。
 
 
 何だか、口ずさむだけで、妙に楽しくなってくるではないか。
 足の大きさなんぞ、さして、取るに足らない問題だ、と言うのが伝わってきて。
 しかも、真ん中らへんの人のことを、
「中途半端のろくでなし」
とあっさり言い切ってしまうあたりなんぞ、愉快愉快。
 
 もちろん、飛び抜けていなければ「ろくでなし」だ、というわけではない。
 けれど、「標準」という名の下で、それから外れる人のことを見下す、とまではゆかずとも、その中で呑気にしているのは、ちょっと無自覚なのでは? という問い掛けが込められているような気がする。(とは、私の変な深読みか?)
 
 などと考えている私は、「中途半端のろくでなし」である。
 …足に関して言えば、ね。
 
 
 さぁ、ここで今一度、皆で唱和しましょう。
 はい、

「馬鹿の大足、間抜けの小足、
 中途半端のろくでなし!」
 
 
 足に限らず、色々な場面で応用が出来そうだ。
 

とりあえず

2003年2月24日
 2月14日から16日までの分の日記を追加。
 全然旅行記っぽくないのがミソ。(何がミソやねん)
 
 
 あ、そういえば、讃岐うどん買っていなかった。
 買い忘れたのではなく、重さのために諦めたのだが。
 ま、それは、近所のスーパーで乾麺を購入して茹でるとしようか。
 
 何といっても、得意料理は釜揚げうどん(季節問わず)の私だ。
 …全然威張れないけどな。
 午前中に、高松へと向かう。
 その地に在住の、知人の白玉さん(仮名)に、久々に会いに行ったのだ。
 
 この白玉さん、以前は同じアパートの店子だった。
 その頃は、部屋にお邪魔したり、一緒に出掛けたりと、色々と交流をしていた。ご飯やお菓子を作って下さったりもして。白玉団子の時もあった。(だから、仮名が白玉さん。←安直)
 
 しかし、この春に引っ越されてからは、手紙やメールでのやりとりはあったものの、会うのは初めてである。会えればいいな、と思いつつも、距離があるので機会が持てず、なかなか叶わなかったので。
 だから、今回の旅行の目的は、それもあった。
 
 
 昼過ぎに待ち合わせて、無事再会。
 セルフの店に入り、うどんを食す。美味しい。
 
 それから、美術館の展示をぶらーっと見てまわったり、互いの近況報告やら何やらの話をしたり。
 
 白玉さんは学校の先生なので、担任を持つことになったクラスの生徒の心配など、様々なことがあるようだ。
 一気に数十人の面倒を見るのは大変だろうなぁ、と思いながら、相槌を打ったり感想を口にしたりする。
 
 
 
 
 
 結局、雨の影響もあり、あまり観光は出来なかったが、彼女にも会えたし、なかなかよい旅行だったのではないか、と思う。
 ブンタンも買えたし。(結局そこかい)
 すだち酢も買ったし。(食べ物ばっかりやん!)
 
 
(*)ブンタン(去年の日記にも書いたが、消したので一応記す。):柑橘類。色・大きさともに、グレープフルーツのような見た目。あと、味もちょっと似ているかな。ただ、水分が若干少なめ。その点では、たとえて言うなら伊予柑と八朔のような関係か。ちなみに、私は八朔も好きですが。
 
 このブンタン、本州(というか、奈良近辺)では見かけないのだが、探している私の目が節穴なんだろうか…?
 しかし、白玉さんに、
「ブンタンって、四国でしか売っていないんでしょうか」
などと聞けはしない。それだとまるで、
「送って下さい」
と言っているかのように、響いてしまうやもしれないから。それはさすがに、ちょっとあつかましいように思えるので。
 
 ちなみに、すだち酢(という商品名だったような気がする。要するに、すだちの果汁の瓶詰である)も、ご当地でしか、入手は不可能なのだろうか…。
 帰ってきてからは、焼酎を割って美味しく飲んでいるが、思いの外減りが早いので、出来れば買い足したいなぁ、と…。
 
 などと、旅先でも相変わらず、食べ物に執着を示してしまう猫またぎであった。
 やっばり、人間の本質って…(以下、言わずもがな)。
 
 
 

 前日に引き続き、この日も某所(笑)見学。
 
 …観光はどうした、観光はー?!
 去年(の旅行の日記は、もう消したけど)に龍ちゃんとしたからいいか、などという言い訳を用意し、ホテルの部屋で独り、早々に寝入る猫またぎ。
 旅先にて、意味無く真面目に品行方正になっているのであった。
 いや、疲労回復には役立ったし、その点では大いに意味があったけれど。
 見学だけとはいえ、結構、体力を消耗するものである。
 (私に元々体力が無い、というだけの話なんだろうか…。)
 
 
 宿で出された御飯を頬張りながら(つまり、食べ歩きもしていない、ということの証左だな…)、
「あぁ、上膳据膳って、何て素晴らしいんだー!!」
と、しみじみ思ったり。
(ちなみに、出されたものはなるべく残さず平らげようとしてしまうのが私の習性である。←貧乏性…?)
 そして、自分の部屋に戻ってからは、備付の電気ポットで翌日の分のお茶の準備をしたりしていた。
 他には何をしていたかというと…、

 金券ショップで切手を見せてもらったり、別段当ても無く街をのしのし歩きまわったり、温泉に浸かったり。

 …これでは、奈良にいる時と大差無いぞ。 
 やっぱり、場所を移動したとて、人間、やっていることは、そうそう変わらないようである。
 それを安易に、本質という大袈裟な言葉を用いて呼んでしまってよいかどうかは別として。
 

 まぁいいか。何も、旅行中は普段と違った行動をとらねばならない、と決まっているわけでもあるまいし。
 
 
 
 で、そうしてせっせと某所見学に励んだ(?)のではあるけれど。
 どうも、私は、のんべんだらりというか、漫然と見てしまう傾向があるらしい。
 なので、その場の様子や出来事の報告を、となった時に、どうも上手く言えなくて、我ながらもどかしい。
 …うーむ。
 
 
 まぁ、そんなこんなしながらも、翌日は高松へ。
 
 別名・望むと望まざるとに関わらず、モテモテ度が確認出来てしまう、ある意味恐怖の日。…かな? (本筋からずれるけれど、「モテモテ」って死語なのだろうか…。)
 
 
 まぁ、とにかくその恐怖の日の到来である。
 
 
 実は前日に、龍ちゃんからチョコレートを贈られた。「誕生日に」とのこと。私、1月生まれなんだけど…でもまぁいいや。いや、遅くったって何だって、はっきり言って嬉しいのだ。幸か不幸か、欲望に忠実な舌と胃袋を、しっかりと持ち合わせているので(笑)。
 なので、その場ではとりあえず、
「プレゼントは、誕生日の前後半年に渡って受け付けております」
という古いギャグを一発かましておいた。
 ともかく、ありがとう、龍ちゃん。
 
 
 で、そのチョコレートだが。
 龍ちゃん曰く、
「生地にお酒を練り込んであるので、ひとかけ食べたらくらくら〜っときた」
そうな。
「だから、全部(4つ入りだった)いっぺんに食べる、などという暴挙には及ばないように」
との注意もされた。
 そ、それは一体どんなに酒を効かせてあるのだろう…? と驚き、半ばわくわくしつつ、旅に持参した。独り寝の夜のよいおともになってくれるだろう、と考えて。
 
 
 …寝しなに4つ全部ぺろっと平らげてしまったことは、彼女には言わずにおいたほうがよいのかなぁ? やっぱり。
 で、でもさぁ、口に含むと、するするっととろけていったものだから、つい次々に食べてしまったんだよ〜。(苦しい言い訳)
 龍ちゃんが酒に弱いだけじゃないのー? 私が強いんじゃなくて。(これも苦しいか?)
 
 
 と、とにかく、まずは無難に、
「ごちそうさま、美味しくいただきました」
とだけ言っておこうっと。本当のことだし。
「全部食べたからか、心なしか、寝付きがよかった」
などということは、黙っておいてもよかろう。言わぬが花。
 それにきっと、ほどなくして眠りこけたのは、船旅の疲れの影響が多分にあるのだろうし。
 
 
 そういうわけなので、これは、ここだけの内密の話、ということで。(不特定多数に公開のネット日記で、内緒にしておくことを求めるとは、何を寝ぼけたことを言っているのだか…。)
 
 
 * * * * * * * 
 
 
 そうそう、この日、某温泉に入ってきた。都合により、昼間に利用。気分は半ば、小原庄助さんである。もっとも、私には、潰すだけの身上がそもそも無いけれど。連日朝寝朝酒朝湯のご大尽も、少なからぬ財産があってこそ可能なものだからね。
 
 そんなことはどうでもよいとして。
 あぁ、いいお湯だった〜。
 洗い場もきれいで、妙に感動。
 湯船で身も心もとろけて、ぐんにゃりとなっていた。
 
 あれ、そういえば、少し前に、似たようなことを書いた覚えがあるぞ。
 …思い出した。クリスマスイブだ。
 イベントを温泉で過ごす女・猫またぎ。
 ぐはっ。
 
 
 
 そんなわけで、実に平和で穏やかなバレンタインデーだった。
 
 …こんな平和でいいんだかどうなんだか。
 
 いや、イベントに振り回されたいわけでは、決してないけれど(準備が面倒だ。<ものぐさな問題発言)。
 でも、こうも健全に枯れているのは、ちょっとどうかと…。
 何だか、お決まりの自虐ネタと化しつつあるのも困ったところだ。
 
 
 今日は龍ちゃんが仕事で奈良に来るので、その合間に昼食を一緒に、という運びになった。
 その席で、
龍「私の友達って、何だか最近、思い立ってふらっと移動する距離が長くなっているような気がする」
という発言が。
 
 …はい、図星です。該当者・猫またぎ。
 当たっているだけに、反論出来ないのが少々辛いところ。
 前科もあるし。(年始の18切符がその最たる例か?)
 
 
 この会話の流れでは、
「実は今日も、これからちょっと出掛けてくるねん」
とは言えなかった…。
 だって、またもや龍ちゃんに、「風来坊」だと言われてしまいそうやねんもん〜。
 いや、私は、そんなにふらふら出歩いているわけではないから、それほどでもないと思うんだけど…。違うってばー。

 
 まぁ、そんなことはさておくとして、とにかく、これから行ってきます。
 旅路での安全を祈りつつ。
 
 …今、変換第一候補に、「暗然」なんて文字が出たぞ。
 それはちょっとどうかと…。
 
と、心のどこかで思いながらも、それでもやっぱり、多少は気になるイベントの時期が、今年もやってきた。
 
 
 店の特設会場にて、ウィスキーボンボンを買う。
 いや、中身はウィスキーではなく日本酒だから、名前は違うかもしれないが。とにかく、酒入りのチョコレートである。(と書くと、何だか不味そうだけど。さしずめ、「日本酒ボンボン」といったところか?)
 
 
 会計の際、
「あ、包装は結構です」
と言ったが、それは、
「憎からず思う彼のために、家に帰って自分で包み直すから…」
ではなく、
「自家消費用だから、立派な包みは不要」
というのは、黙っておいた方がよいのだろうか?(もちろん、店員には言わなかったが。)
 
 
 でもいいよね、自分で食べたって。やっぱり、まず自分を大切にしないと。他者への思いやりやら何やらも、それが土台にあってこそ、だからね。
 
 …ただ自分が食べたいばかりに…我ながら、苦しい言い訳やな。でもいいや。(いいのか?)
 
 
 
 
 
 とまぁ、そんなわけで、今年のバレンタインは、大人しくやり過ごそうかと思う。
 
 とりあえず、私を勝手にモルモットにした人には渡さない、ということは決定済。大人げないけど、仕方が無い。

モルモットの気分

2003年2月8日
 だいぶ前に、知人のういろう氏(仮名)の誕生日に、
「プレゼントは何が欲しい?」
と尋ねると、
「猫またぎを一日自由に出来る券とかさ〜」
などとぬかしおった。
 
 ぎょえーーーっ!
 何じゃそれは!!
 
 ちょっと動揺したが、とりあえず、
「ふーん、私の自由って、チケット制なんかー」
と返しておいた。
 奴からは、
「論点はそこじゃない」
と突っ込まれた(想像がついたので、予め自己突っ込みをしておいたのだが…)けれど、敢えてそこは素通り、というか無視。
 
(だいぶ話を端折っているけれど、大体そんな感じのやりとりだった。)
 
 
 
 

 実は私は、他人の色恋の話を聞くのは、そんなに嫌いではない。
 何と言っても、対岸の火事だし。(ひどいな、私)
 押し付けがましく聞かされるのは御免だし、苦痛に感じられたりもするけれど、そうでなければ、基本的に平気である。
 そういうことが多くなると、おかげさまで(?)、耳年増になってしまいつつあるような気もするけれど、別段、これといった実害を被るわけでもないので、どうということは無い。
 
 
 しかし。
 たまに、こういうことをされると、はっきり言って、困ってしまう。
 私を、単なる話の聞き役ではなく、
「こんなことを言うと、女の人はどういう反応を示すか」
を観察すべく、実験をするなどとは。
 私でデータを取ったとて、あまり他に活用出来まい。普遍的な情報を得たいのならば、偏りの無い、もっと常識的な女の人をサンプルとして選び出すのが賢明であろうに。
 相手の選択の段階で、彼は既に間違いを犯している。
 
 いや、それ以前に、趣味がよろしくない行いだなぁ、と私には思えるけれど。
 色々な話を聞かせてくれるぶんには平気なのだが、これはちょっと…勘弁してほしい、本当に。
 私は、いや、私に限らず誰でも、練習台ではないのだから。
 勝手にモルモットに仕立て上げてくれるな。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 仮にもし万が一、それが、実験ではなく本番(この表現も、ちょっといやだが…)だとしても、やっぱりお断りだ。
 言うならはっきり言えばよいではないか。
 そんな言い方をしても、望むような結果は得られないぞ。ふいっとかわされるのがオチであろう。
 
とは、ちょっと違うけれど。
 
 今日、指輪が行方不明になった。
 とはいうものの、足は生えていないので、自分から逃げ出したのではない。もちろん、私のせいだ。
 例の如く、手を洗う際に外したまま、置き忘れてしまったらしい。
 自業自得とはいえ、ショックである。
 
 今にして思えば、10日ほど前の日記が、期せずして自己予言になってしまったような…。
 こんな形で、生き別れになってしまうとは。
 ううう。
 諦めきれないので、もう少し探してみるつもりだ。
 
 
 
 
 しかし、なくなってから初めて(今回の私の場合は、そうでもないけど)、大切さに気付くというのは、あまりよろしくないな。
 物に限らず、人間関係でも。
 一緒の時から、ちゃんと扱わないと。
 
 人間を物(や動物)に喩えるのは、場合によっては悪趣味かもしれないが、ついついそんなふうに考えてしまう私であった。
 
 
 あぁ、それにしても、未練たらたらやな…。

 さて、先日の和服日記の続きを、ちょっと書いてみることにしよう。
 
 
 恐らく、私の着方は、邪道の部類に入るであろう。殊に、優雅さの追求という点においては。
 着付け教室に通っているわけでもなく、本を見ながら自己流に着ているのだが、どうやら、原因はそれだけではなさそうだ。
 
 まず、眼鏡を掛けていることが多い。(何らかの視力矯正器具は必需品)
 そして、カチューシャをしていることもある。(前髪が邪魔だから)
 更に今の季節、外では手袋もしている。(寒いから。「お洒落は我慢よ!」という考え方は、更々無い)
 おまけに、腕時計もしている。(時間がすぐ分かって便利だから)
 実用第一である。
 
(ついでに言うと、顔は化粧をあまり念入りに施してはいない。和服姿の時には、いつもよりも濃い目に化粧するのが、綺麗に見せるコツ、とのことだが…。今はそこまで手が回らないのだ。)
 
 
 知人からは、
「大正ロマンっぽくて、それもまた、いいんじゃないの?」
という苦し紛れのフォロー、もとい、好意的な感想も得られたが、その後、こうも言われた。
「なんか、あんたの格好、書生さんみたい」
 
 し、書生?
 …それはもしや、色気とは対極にある格好、ということですか…?
 
 確かに、布地ひとつをとってみても、私が着ているのは、染めではなく織りのもの(時にはウールのことも)だから、生地の質感自体、柔らかというよりはしゃきっとした感じのものなんだけど。(私は、そういうものが好みなのだ。)
 でも、
「元から色っぽい人は、戦時中のもんぺ姿でも、やはり色気を漂わせていた」
という話を聞いたことがある。だから、服の素材の持ち味というよりは、着る者の資質によるものかもしれない。
 
 
 …ううう。
 やはり、洋服で無理なものが、和服で実現出来るわけがないようである。この度、それを思い知らされた。<大袈裟
 
 
 それより、そもそも、昔、書生をしている女の人って、いたのだろうか?(現代では、女性に限らず、書生という存在自体がいなくなっているだろうから。)少なくとも、私は聞いたことが無いけど。書生といえば、男の人を思い浮かべる。
 
 
 だが、それはさておくとしても、私って、花より団子というか、色気より実用のほうが勝ってしまうんだなぁ…と改めて感じさせられてしまった。
 だって、だって、寒いんやもーん!
 
 
 
 あ、そうそう。実を言うと、この季節、胴の部分には、保温と補整を兼ねてバスタオルを巻いている。
 おまけに腰には、使い捨ての貼るカイロまでも仕込んでいる。
 ついでに言うと、足袋の下には、タビックス(*)をしっかりと穿き込んでいる。
 …伊達の薄着、という言葉は、私の思考回路とは無縁である。
 
(*)タビックス:足袋とソックスの合体版。要するに、先割れ靴下。穿いた姿は、まるで家畜の蹄のようである。
 ちなみにこのタビックス、『無印良女』(群ようこ著/確か角川文庫)にも登場する。あのタビックスのアヤコ、私は大好きです。天真爛漫で憎めない豪傑っぷりが。
 
 
 しかし、ふと思ったのだが。
 
 もしもこの先、
 憎からず思う人(が居たとして<あくまで仮定)の前で、
 帯を解く場面が訪れたとしても…(現実よりも想像が、一足どころか遥か先まで駆け巡るのは、私のいつもの悪い癖である(苦笑))、

 そこに現れたのが、バスタオルぐるぐる巻きの胴体やカイロをぺたぺた貼りつけた腰だったら、
 笑われてしまいそうじゃないか?
 雰囲気ぶち壊しになってしまわないか?
 
 …どうしたらいいんだろう?
 以前、着物雑誌に、
「便利帯(お太鼓の部分を分離させた、二部式の作り帯。予め結んだ形が出来あがっているので手間要らず。)だと、男の人の前で脱げないのが困りもの」
という意見が載せられていたが、これはそれよりも遥かに深刻な問題である。胴体バスタオル巻きの状態で色気を感じさせるのは至難の技だと、私には思える。

 色気と実用の両立の道は、あり得ないのか?
 
 などと、独りで取越苦労をしている私であった。
 こんな私に救いの手(=解決策)を、是非。
 

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