すーっかり日記をさぼっていた猫またぎです。
 …9月に入ってから、全然書いていなかったな…(カレンダー上は)。
 
 
 ところで今日、けったいなメールが入っていました。
 折角なので、ここで紹介して晒してみます。
 内容は、次の通り。(一応、文中の名前は、伏せておきました。)
 
 

 ○○子です。
 この前はごちそうさまでした。
 言われたとおりのアドレスに送信してみました。
 きちんと届いてますか?

(以上で、全文引用終わり)
 
 
 ……。
 
 
 あのー。
 私、○○子さんに御馳走なんてしていないんですが。この前っていつだよ。
 それに、アドレスなんて言っていないんですが。
 そもそも、私の知り合いに、○○子さんという人は、いないんですが。(全然、珍しい名前ではなかったけれど)
 
 
 まぁ、前にも似たようなメールを受け取ったことはあるしね、
「あー、またか」
と思いましたよ。
 いや、間違いメールの線も、有り得なくはないのですが。
 
 
 でもさ、お礼のメールで、
『言われたとおりのアドレスに送信してみました』
なんて書き方、しないよね〜。
 それに、
『きちんと届いてますか?』
なんて確認も、しないよね〜。
 アドレス間違いって、指摘されて初めて気付くものでしょうに。自分から尋ねるとは、

「私は怪しい者です」
 
とばらしてしまったも同然だろ。
 
 
 変に抽象度が高いのも、気になるよね〜。
 個人に宛てたメールなんだから、ぼやかさずに、何か具体的な事柄を織り込んでもよさそうなものなのにね。
「お手製の●●、美味しかったです」
とかさ。(手料理を振舞われたのか外食かを明言していないのもポイントか?)
 
 
 極め付が、題名。
 
『こちらでよろしいのかしら?』
 
ですと。
 ほほー、またずいぶんと、高飛車な尋ね方のメールですなぁ。
 お上品ぶっているのが気色悪いわいっ。
 お礼のつもりならば、もうちょっと、物の言い方に気を付けたほうがよくってよ。
 ↑お嬢様風の口調を真似てみた
 
 
 というわけで、間違いのお知らせは、していません。
 こんなのに返信するのは、やっぱりためらうよね。
 
 
 
 
 しかし、お礼として論外なのは言うまでも無いが(第一、相手の名前すらも書いていないのだよ)、返信誘導のメールとしても、つくづく不出来な文面だよなぁ。
 
 
 ちっともよろしくないんじゃボケっ。(言い過ぎ?)

五輪つれづれ

2004年8月29日
 とうとうオリンピックも終わりましたね。
 プールの会場に何故か屋根が無かったり(悪天候の場合には、一体どうなったんだろう?? それに、雨は降らなかったけれど、背泳ぎやシンクロの選手は難儀した、とのことだし…うーむ)。
 終盤にドーピング問題で大揺れがあったり(あれって未だに、完全には終結していないんですよね、確か)。
 男子マラソンでとんでもない乱入者が現れたり(執行猶予がついて、しかも3ヶ月のスポーツ観戦禁止ぐらいで済むなんて、随分と軽い刑だよな…)。
 などなど、色々なことがあったオリンピックでしたが。

 ま、のっけからこの調子ですので。
 ここから先は尚更、これといった疑問を覚えずにすんなりと感動に酔いしれていたい人は、読まないほうがいいかもしれません。
 と、一応、断っておきますね。

 * * * * * * * 

 女子マラソンの野口選手は、失業保険で生活していた時期があったそうで。別にそのこと自体はどうでもいいのですが。(いや、さぞかし大変だっただろうなぁ、とは思いますけどね、もちろん。)
 しかし、その話をどこでどう間違えたのか、
「生活保護を受けていたらしい」
と日記(ここの)に書いている人がいたのには驚いた。
 …失業保険と生活保護とは、別物だと思うのですが。仮に今、生活保護の是非やその他云々はさておくとしても、事実と異なることを書くという、そのこと自体が失礼に当たる、と私は思うのですが。
 噂の伝言ゲームの一端を見せられたような気持ちになりました。あぁ、こういうふうに、でたらめや誇張が加えられていくんだなぁ、と。
 けれど恐らく、尾鰭を付けた張本人は、特に反省の色も無く、
「でもそんな、悪気は無かったんですよー」
などと、下らない弁解をするのかもなぁ、とも。


 それから。
 メダリストに向かって、
「この次は、ぜひぜひ、プライベートでも金メダルを!
なーんていう、お節介…もとい励ましの言葉、時々ありますよね。
 …そんなん余計なお世話やわ、と思うのは私だけでしょうか。ええやん別に、伴侶を得ようと子供を産もうと、どうとでも、好きにすれば。
 Dいたひかる(どんな伏字だよ、おい)あたりが言ってくれないかな、
「どうでもいいですよ♪ …『プライベートの金メダル』という、寒いギャグ
って。(私が知らないだけでもう既に、ネタにしているのかもしれないけど。…いや、この程度じゃ、ネタにはならないか。)

 あとそれと、もうひとつ。
 某「架橋」で検索してこの日記を見に来た人がいるみたいですが。(線で消しておいても、検索には引っ掛かるんですね。ま、そりゃそうか。)
 あの台詞、どう考えても、計算ずくのものですよね。
 一番嫌らしいなぁと感じたのは、タイミング。
 オリンピックの報道では、どの局でも共通して、あの映像を使うんですよね。実況・解説の音声もそのままで(各局で独自に手直しを入れたりはしない、ということ)。
 それを知りながら(というより、知っていたからこそ、か)、最後の試技者の着地の、あの決定的瞬間に、狙いを定めて発せられた台詞。ダイジェストでも、あの部分ならば、必ずや流されるだろうから。省かれるはずも無いでしょう、何せ、金メダルが確定した、まさにその時、だもんね。
 そのしたたかさ、計算高さを考えると…、ね。
「ちょっと色気を出して、決め台詞をあたためていたんですよ〜。で、あの瞬間、興奮のあまり、つい口にしてしまいました。てへっ」
なんて言い訳が通用する範囲にはとどめずに、そこまでやるのかよ、ってね。自局の色を他局の放送にも滲ませるためには、なりふり構わないのね。(ま、そういう言い訳は、それはそれで性質が悪そうですが。)
 ゆずのあの歌は、それ自体だけでも十分、支持は得られるでしょうに。そんな、小手先の策なんぞ弄さずとも。
 あんなの、流行語大賞にノミネートされたって、私は絶対認めないぞっ。

 こんなふうに思ってしまう私って、やっぱり、ひねくれているのだろうか…。というより、こういう私こそが、嫌な奴か?
 いや、各場面では、感動も確かにしていたんですよー、本当に!(って言っても、今更もう遅いか)

 * * * * * * * 


 しかしなぁ…。
 思うような結果を残せなかった時に、
「期待を裏切ってしまってごめんなさい」
と言って頭を下げる選手たちの姿は、見ていて痛々しい。

 そりゃ確かに、残念は残念だ。
 そしてまた、
「参加することにこそ意義がある」
という考え方にあっさりと頷くつもりもない。戦乱や困窮にあえいでいる国ならばともかく、少なくとも日本では、あまり実感の伴う言葉ではないだろう。単なる綺麗事を言っているだけじゃないか、と思う人もいるかもしれない。

 でも…、それでも。
 たとえ、望む色のメダルを獲得出来なかったとしても。
 どうか、そんなふうに謝らないで…、と思うのもまた事実。

 何て言えばいいのか、言葉が見つからないよ。
 ただ、お疲れ様でした、という気持ちがあるだけ。

 こんなことを言っていては、いけないのかなぁ。

アテネに溺れて

2004年8月23日
 
 アテネ、じゃないですよー。
 
 
 
 お盆期間中にだけ毎日のように更新し、カレンダーの日付の数字を太く青く染めていた猫またぎです。皆さんお元気ですか。
 
 
 さて、この度のオリンピック。
 ○○選手おめでとうございます! と書きたいとたとえ思ったとしても全然追いつかないぐらい、連日凄いですね。(それは、私の書くペースが鈍いから、というのもあるのだが…。)
 メダルラッシュって、こういうものなのね、としみじみ(?)感じております、はい。
 一番記憶の新しいところだけ書きますが、女子マラソン。コースの高低差・気象条件(気候?)ともに過酷だったのですね…。レース途中、他国の選手がスペシャルドリンクを道端で吐いていたのを見掛けたので、心配です。
 そんな中で今回、日本選手3人ともリタイアせず、しかも1位・5位・7位って、凄いことですよね。
 もう、私が五輪関連で思い出した下らないネタなんぞ、一気に吹っ飛ぶぐらい。(それはまた後日、機会があれば…。)
 
 
 その一方で、重箱の隅突付き的なことを思ったりも。
 自国選手の勝利を願うのはわかるけれど、だからと言って、他の選手を貶めるようなことを口にするのはやめようよ、とか。
 あと、某国営放送の体操の実況での、「栄光への架橋だ!」。あれもどうかと…。折角の選手たちの健闘を、自分たちの都合で変に色付けしないでほしいなぁ。
 表現としては悪くはなくても、タイアップを意識した結び付けが見えると、ちょっと興醒めしてしまいそうになるのは私だけ?

 
 
 …とか何とか、散々嫌なことを言いましたが。
 盛り上がった場面では、つい正座して観戦していたんですけどね。
 他には、真夜中に目覚ましを掛けたりとか。
(○○の決勝は何時からだな、ではそれまで●時間、睡眠をとっておこう…なんて考えたりもして。←結構、はまっているかも…)
 
 もちろん、見る余裕のある日に限ったことですが。
 しかし、うっかりすると、アテネ仕様の身体になってしまいそうな今日この頃です。
 言うまでもありませんが、これは、鍛えているという意味ではなく、日本国内に居ながらにして時差ぼけ状態、ということです。(アホ)
 
 

 …ちゃんと寝ろ、私。そして、さぼっていないでちゃんと鍛えろっ。
 

ちょっとお知らせ

2004年8月17日
 15日のところに載せていた日記を16日に移動して、15日分として新たに別の日記を書きました。
 読んでみたい、という物好きな方は、どうぞ。
 
 とりあえず、お知らせまで。
 
ISBN:4042695019 文庫 作山 宗久 角川書店 1996/06 ¥483
ISBN:4042695019 文庫 作山 宗久 角川書店 1996/06 ¥483
レビュー

出版社/著者からの内容紹介
「青春とは、ある期間ではなく、心の持ちかたを言う…。」温かな愛に満ち、生を讃えた彼の詩は、多くのトップビジネスマンに愛され続けたベストセラー詩集。(小川博之)

内容(「BOOK」データベースより)
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。困難の時代に生きた著者・ウルマンは、80歳という人生の頂に立ち、来たるべき死を自覚しながらもなお、理想を追うことの大切さを歌い続けた。温かな愛に満ち、生を讃えた彼の詩は、時代を超えて我々にさわやかな感動をもたらす。多くのトップビジネスマンに愛され続けたベストセラー詩集。

 
 

 別に私は、そんな大した理想や情熱を持っていたわけではないけれど。
 でも、少なくとも、加齢を闇雲に恐れることは無かったな。

 だから、自分の若さ(身体面の)を振りかざして、年上の人を蔑むことも無かった。
 そして、相手の未熟さや経験不足をあげつらって、年下の人を嘲ることも無かった。

 それには多分、個人的な事情の影響もありそうだけど。
 そんな、武器に出来るほどの魅力を持っているとは思えなかったし、それに、年齢の割に経験値(というか、達成度)が低めだ、という自覚もあるので。
(…ま、それらの条件を満たしていれば他者を見下す、とは限らないだろうけれどね。)
 どちらかと言うと私の場合、実年齢と今挙げた「達成度(≒経験値)」とが釣り合っていない、ということのほうが、劣等感を抱くけど。
 逆に言えば、釣り合いが取れていれば、それでよさそうだと思えるのだが、それは「持たざる者」の想像力の限界なのかな。

 そりゃ私だって、歳を取ることへの恐れはあるよ。深刻な老化に見舞われてはいるわけではないながらも、多少はね。
 けれども。
 思ったからといって、何の考えも無くそのまま口に出すのは、問題だろう。
 その物言いが、年上の者にとっては特に、どれほど傲慢に響くことか。たとえ冗談めかしたものだとしても。
 それぐらいのこと、考えられないのか?

 だからもういい加減、そんな言い方、やめてよ。

 日本では幼形信仰にも似た考え方がまだまだ強いし、若ければ多少の失敗は大目に見てもらえる、若くさえあればちやほやされる、ということもあるだろう。それが現実。
 でも、そんな傾向に迎合しているだけでは、恐らく事態は好転しないよ。

(話は多少脱線するが、ついでだから書いておこう。
 私は、自分の歳に合わせて年齢基準をずらす人が嫌いだ。
 自分が10代の頃には「ハタチ超えたらオバサン」と言い、20代になれば「30歳以降は…」、そして30代では「今の中高年ってまだまだ若いよね〜」、…というふうに。
 少しずつ言うことを変えて、自分を「ぎりぎりセーフ」の線にじわじわと持っていこうとする、そのせこい根性が気に食わない、ということだ。それは、「いつまでも若々しくあろう」とする気構えとは、似て非なるものだと思う。
 初めから一貫した主張を持つのは難しいけれど、上記のように極端な「若さ信仰」を謳うのならば、それなりの覚悟は決めておくべきだよね。その考え方によって遠からず自分が苦しくなる、ということぐらい、予見不可能ではないでしょう?)


 ナマモノとしての瑞々しさ、その恩恵に浴することの出来る時期も、ほんの僅か。
 その間に胡坐を掻いているだけで、後々痛い目を見ても、決して文句は言えまいに。

 どうして、歳を重ねることが、そんなにまで嫌がられるのだろう。
 そんな、お茶でもあるまいし、出涸らしになってしまうとは限らないでしょう?
 心掛けと過ごし方次第なんていうのは綺麗事、そんなの書生論だよ…と言われるかもしれないね。
 けれど、それでもいいじゃない。ただ過ぎ行く日々を嘆くよりは。
 
 
 
青春
           サムエル・ウルマンの詩より
 青春とは人生のある期間をいうのではなく
 心の様相をいうのだ
 年を重ねただけで 人は老いない
 理想を失う時に はじめて老いがくる
 歳月は皮膚のしわを増すが
 情熱を失う時に 精神はしぼむ
  人は信念とともに若く
  疑惑とともに老ゆる
  希望ある限り若く
  失望とともに老い朽ちる

ISBN:4007000379 単行本 斎藤 美奈子 岩波書店 2002/08 ¥798

内容(「BOOK」データベースより)
雑炊、すいとんだけではなかった戦争中の多彩なメニュー。米がない!食料がない!そのとき人々はどうしたか。日中戦争、太平洋戦争、敗戦までの食生活史を網羅。こんなものまで食べていた!究極の非常食を再現。戦争中の味がリアルに体験できるレシピ満載。写真で見る戦争中の暮らし。食べられる野草図鑑つき。「ぜいたくは敵だ」の時代の台所と食卓に迫る読めて使えるガイドブック初登場。



 近頃、節約番組をよく見る。
 「節約番組」とは、予算を抑えて作った番組…のことではなく、節約をテーマとした番組を指して言う。(私が今勝手に考えた名称である。)
 数名が各自1ヶ月1万円での生活を送って残高の多さを競うものだったり、あるいは、「ビンボーバトル」と称して普段の貧乏生活を紹介するものだったり(…どの番組のことだかバレバレだな)。時間帯も、ゴールデン枠から深夜まで、色々ある。

 「ビンボーバトル」のほうの番組名は、『●形金太郎』(略して『銭金』)といって、時々私の携帯フォト日記のネタにしている。(視聴者以外には、「一体何のことやら、さっぱり」という内容が多いですね、すみません。)結構楽しんで見ているのだが、しかしその一方で、
「これは、一歩間違えば、危険な方向に進んでしまいそうだ」
と感じることも少なくない。
 それでなくとも、『銭金』には、ちょっとねじれた感覚の人がよく登場するのだけど。そのねじれが、経済的な苦しさゆえに生じたものなのか、それとも元来から持っていた性格が環境(=困窮)によって引き出されただけなのか、どちらなのかは定かではないが(失礼)、ともかく、
「貧すれば鈍するとは、まさに、こういうことだな…」
と思うこともある。絶句せずに笑える程度・性質のものならまだしも、そうでない場合も度々見受けられる。

 そして、もうひとつ挙げた「1ヶ月1万円」のほうも、ちょっとなぁ…と思うところがある。
 野草を摘んで食材の足しにする、なんていうのは、
「自然の恵みを味わえて、あれはあれで時にはいいかもしれないな」
と考えられなくもないが、しかし、戦時中の食糧事情を思い浮かべてしまうのもまた事実。
 もちろんあれは、勝利(=相手の残高を上回ること)を目指して節約が繰り広げられているのだが、掲げられる目標の違いこそあれど、していることに大差は無い。1ヶ月単位で、しかも番組企画という枠内で行うのだからまだ大丈夫だが、もしも無制限・長期化すれば、精神的に参ってしまうような気がする。
 自然の恵み云々というのも、あくまで、余裕があればこそ言えることなのである。切羽詰まった状況だと、趣味的に節約を楽しむなんてことは、到底出来ないだろう。
 
 
 
 
 
 さて、前置きが長くなったが(前置きなんかい!)、一応ここからが本題。
 この本では、戦前の食文化から、終戦前後の食糧事情まで、書かれている。著者曰く、「当時の婦人雑誌に載った料理の作り方を通して、そんな戦争中の食の世界へあなたを誘うガイドブック」である(「はじめに」より)。

 戦争になれば食べ物が欠乏するのは何故か、戦争体験者でも勘違いをしているらしい。
「軍隊に食糧を供出させられるからでしょう?」
と、的外れなことを口にしたりするそうである。(…今、「勘違い」「的外れ」などと偉そうに言ったけれど、恥ずかしながら私も、そう思い込んでいるふしがあった。)
 本当の理由は、ふたつ。ひとつは、全ての産業に軍需が優先する(=農村の人手が手薄になる)ということ。そしてもうひとつは、経済封鎖や海上封鎖による、輸送の問題。
戦争は戦闘や空襲のことだと思ってしまいがちだ。しかし、戦闘は戦争のほんの一部分でしかない。戦争の大部分は、物資の調達、運搬、分配といったいわば「お役所仕事」である。日本政府と旧日本軍はそこを甘く見ていたということだ。

(傍線引用者。以下同様。)

 というわけで、題名について、本文の終わりの辺りに説明がある。
戦争になれば必ずまた同じことが起きる。戦争の影響で食糧がなくなるのではない。食糧が無くなるのが戦争なのだ。その意味で、先の戦争中における人々の暮らしは「銃後」でも「戦時」でもなく「戦」そのものだった。だから「戦時下」ではなく「戦下」のレシピなのである。

 なるほど。
 確かに、直接戦闘に関わらない一般国民の暮らしは「銃後」と呼ばれ、その苦労なんて前線の兵士に比べればまだまし、と軽んじられることがある。
 けれど、「一気にやられるのではなく、じわじわと痛めつけられるほうが、ある意味、辛いこともある」のかもしれない。イケイケ気分(←これまた、借用した表現です。)だった戦争初期はともかく、終盤は決して安穏と過ごしていたわけではないのだから。
 食に関する事柄は、身近ではあるが、卑近だとは思わない。食べ物のことよりも戦闘のことを考えるほうが偉い、というわけでは、決してない。ましてや、一般人の食糧よりも兵糧のほうが大切、などということもなかろう。(ちなみに、戦地では内地よりいっそう食糧に窮していた(食糧の補給や現地調達に失敗したから)、とある。)

(しかし…、「戦下」って言葉、あまり認識されていませんよね。今この文を書いていて漢字変換しても、別の単語4つしか出て来なかったし。
 ちなみに、意味はそれぞれ、以下の通り。
 戦火:戦争による火災・戦闘
 戦禍:戦争による被害・災難
 戦渦:戦争による混乱
 戦果:戦争・戦闘で得た成果
 知らなかった…。なので、自分のための備忘録として、この機会に書いておく。)


 最後に、あとがきを一部引用しておこう。資料をもとに淡々と語られる本書には数少ないながらも、著者の主張が述べられた重要な箇所である。(とはいえ、資料の収集・分析などを軽視しているわけではありませんので、悪しからず…。)

このような題材は、とかく感謝や反省の材料に使われがちです。「いまの豊かな生活を感謝しましょう」「いまのぜいたくな暮らしを反省しましょう」というわけです。しかし、当時の暮らしから、耐えること、我慢することの尊さを学ぶという姿勢は違うような気がします。こんな生活が来る日も来る日も来る日も来る日も続くのは絶対に嫌だ! そうならないために政治や国家とどう向き合うかを、私たちは考えるべきなのです。

 
ちゃんとした手紙とはがきが書ける本。
ISBN:4838783647 大型本 マガジンハウス マガジンハウス 2002/06 ¥980
内容(「MARC」データベースより)
手紙とはがきの基本の形はどうしても知っておきたい。言いたいことがちゃんと伝わる手紙とはがきの文例大事典や、書き出し・時候の挨拶・結び文の文例早見帖などを収録。特製ポストカード、封筒つき。


 またもや、ちょっと父の日の話題に絡めて書いてみる。

 父に出した葉書は、ピンクの薔薇の絵柄のものである。
 こてこてに甘い雰囲気(笑)で、家族以外の異性には出しにくいような(同性なら構わないけど)。だから、ちょうどいいかと思って使った。

 いや、理由は何もそれだけじゃないけどね。そういえば確か、父の日って薔薇を贈るんじゃなかったっけ? 記憶が曖昧だけど…。もう一方の、母の日がカーネーションというのは、しっかり覚えているのだが。父の日って、やっぱり影が薄いのか?

 話を元に戻そう。そういう甘ったるい感じの絵柄ならば、ある程度は規制を…と言っては大袈裟だが、相手によっての使い分けをしてもよいと思う。
 手紙に限らず、例えば深紅の薔薇だったら、(贈る側にも覚悟が要るかもしれないが、)受け取る側はもっと身構えてしまいそうだ。何か言外の意味が込められているのか、と。

 けれども。
 上に挙げたような極端なもの以外では、なるべく、変な規制を敷かないでほしい。
 というのも、便箋や切手の絵柄の組み合わせをあれこれ考えるのは、私の楽しみのひとつなので。
 だから、手紙のルールを紹介しているこの本に、
「女性から男性に宛てての手紙なら、きれいな模様や香りのある便箋は避けるべきでしょう。誤解を招くことになりかねません」

などと書いてある(※15頁の最後。)のを読んで、
「何を要らんことを言うてくれるんじゃ!」
と怒りを覚えたりもした。そんなことを、さも当然であるかのように語り、常識っぽくして広めてほしくはないなぁ、私としては。

 別にええやんか、男の人への手紙で、模様入りの便箋を使っても…。頼むから、そんなところで私の楽しみを奪ってくれるなよ。
 いきなり引用してしまうが、『花のような女』(6月26日の日記参照)の最終章「あなたに花束」で、著者はこう言っている。

「花は、気持ちを伝える小道具として使われることがある。
(中略)
 花言葉とかを参考にするヒトもいるかもしれない。でもあまりその意味にとらわれることはない。…きれいならいいんじゃない?
 そもそも花に意味を持たせるのは人の勝手で―――
 花の色、形、匂い、それらは自分の種子を残すための戦略にすぎない。花は花のために咲くのだ。
 それでも人は花に想いを込め、花を愛でる。花とヒト、ヒトとヒト、思い違い、すれ違いもある。それは気になるかもしれないけれど、
 どんな時でも花を贈られるとうれしいものだ。その素直な気持ちが大事。」


 そう、そうですよ、大田垣さん!
 彼女と握手したい気持ちになった。
 花に意味を持たせるのは、あくまで人の勝手。人間の側の都合。桜に武士道精神を重ねる、とかね。
 同様に、絵柄にも別段深い意味は無い。単に、相手の気持ちが和めば嬉しいな、という思いがあるだけなのだ。(時には、笑いを取れれば、なんて場合も?)

 憎からず思う人に書き送る際、あれこれ心を砕くのは、もちろん。
 でも、そういう仲だけが全てじゃないから。
 それ以外では色柄を極力抑えるべき、という強制は下らないし、あまりに味気無い。

 相手の性別によって分け隔てをすることなく、季節の薫りや彩りを手紙に添えたい。
 ただそれだけのこと。







 …なんて、暑中見舞もろくに出していない私が言えた立場でもないのかもしれないが。(弱気)

暴君ハバネロ

2004年8月13日 趣味
ハバネロは世界を泣かせた激辛・激うまトウガラシ!ギネス公認、世界一の辛さです。怒らすとヤバイトウガラシ界の暴君ハバネロをポテトからめておいしーくしちゃいました。暴君がおとなしくしている、今のうちにどうぞ・・・


 
 いや〜、まいった。
 そりゃもう、鼻血を噴くぐらい。(久々に出ました)
 
 以前にもちらっと書いたが、私は、辛味の強いものを食べると、血行がよくなるのだろうか、顔が火照って赤くなる。唐辛子の味は好きなのに、身体は何故か、(拒否ではないが)過剰反応を示すのだ。
 今回もその例に漏れず、効果(?)てきめん。それに加え、鼻もぐずぐずし始めた。
 なので、鼻をかんだら、どばっと。
 
 どこが大人しいんじゃー! めっちゃ暴れまくりやん!! 広告に偽りありやんかー!!!
 …ま、暑い部屋で汗をかきながら食べていた私も私か。
 
 
 * * * * * * * 
 
 
 そんなわけで。
 昨夜のオリンピックの開会式は、凍らせたペットボトルを氷枕代わりにして頭を冷やしながら、横になって見ていたのでした。
 
 残った半袋分は、冷房している時に食べることにしよう…。(鼻血で中断し、食べきれなかった)

飲み会の後の話。

2004年8月12日
 
 この日は、知人たちと久々に飲む。
 近所の祭を見てから店へ、ということで、これはチャンス! とばかりに浴衣を着て行く私。そうよ今までチャンスが無かったのよっ。
 祭の夜の明かりも楽しめたし、飲みながら、
「浴衣にビールって似合うよね〜」
などと言われたりもして、ちょっと機嫌をよくしていた(アホ)。
 …面子は女3人だったんだけどね。
 
 まぁ、それは別にどうでもいいけれど。
 帰りに、ちょっと動揺したことが。
 
 
 彼女らと分かれた後、家へと向かっていると、自宅近くで見知らぬ人が合流してきた。
 歩きながら、私の年齢や職業を尋ねてくる。そして、ドライブしませんか、と。
 鬱陶しいので、相手の顔も見ずに(でも、何故か質問には答えていたが…。「咄嗟の場合には、なかなか嘘を思い付かない」って本当なんだなぁ。)すたこら歩くことにした。
 もうすぐ着いてしまうんだけど…、というところでも、まだ付いて来る彼。物好きな人だ。しかし、住居を知られたくなかったので、やむなく素通り。
 ほどなく彼は諦めて去って行ったが、念のため、更に先にある公共施設(仮称)まで歩き、ついでだからトイレを借りて(笑)しばらく休んでから、来た道を引き返して帰宅。
 
 
 いや〜、別に何をされたというわけでもないけれど(もちろんだが)、ちょっと怖かった。集団で囲んだりする悪質なのじゃなくてよかったよ。
 それに、こういうの自体、慣れていないからなー。実に何年ぶりか。
 ま、向こうからすれば、下駄をからころと鳴らしながら、ほろ酔いで楽しそうに歩いてくる浴衣姿の女、ということで、ほんの気紛れに声を掛けてみたんだろうけどさ。
 
 でも普通、そんな得体の知れない人の車に乗るかっつうの。
 と言ったが、思い出した。ちょうど1年ぐらい前に、そんな感じの事件、ありましたけどね。で、監禁された、っていう。あれはやはり、飛んで火に入る夏の虫でしょう。同情の余地無し。(と、私も思う)
 
 
 いや、待てよ。
 確か彼は、仕事は接客業だと言っていたな。(一方的に尋ねられっぱなしなのも癪だから、同じ質問で返していたのだ。←変な対抗意識?)
 だとすれば、もしかして、売上を伸ばすべく、自分の働く店に連れて行くつもりだったのかな。するとやっぱり、ナンパじゃなかったのね。
 …しかし、それならそれで、駅前など、もっと繁華な場所にいる人(それも、そこそこ懐に余裕のありそうな)を誘えばよさそうに思えるが。いかがなものか。

一般の「おしゃぶり昆布」よりも、さらに薄く加工された、
「半生」のおしゃぶり昆布です。透き通るほどの薄さで、
昆布の甘味が口の中いっぱいに広がります。
安心のチャック付き


 以前にどなたかが書いてらしたので、ひそかに気になっていた。
 この日、近所の菓子屋で発見し、即購入。
 
 ぺらぺらに薄い。
 そして、美味しいです。さすがは名誉総裁賞。しかし、名誉総裁賞って何だろう。
 多分好きになるだろうな、と期待していた通り。
 
 
 
 
 しかし…、この薄さに慣れると、普通の(というか、元の)厚さには戻れなくなってしまうのでは? とも思う私。
 それって、明るい家族計画と同じ??(変なオチをつけるのは、いい加減やめましょう、猫またぎさん)
 
 
 * * * * * * * 
 
 
 ま、そんなわけで、私は今日も元気です。
 あのオチの後で「元気」だなどと言うと、変な意味に誤解されそうな気もしますが…。「そんなわけ」って、どんなわけなんだ。
 この日は、上記の『とろべ〜』の他に、またもや鰻を買いました。相変わらず、季節ものに踊らされています。今年の丑の日って、2回もあったのね。
 
 でも、今かなり頭が痛いので、もう寝ます。
 …元気じゃないよな、私。
 
 

うさぎと猫

2004年7月19日
 この日、念願の浴衣を買いに。
 
 以前から、いくつか目を付けていたものがあった。
 閉店時刻を気にしつつ、店に行ったのは日暮れの頃。(暑いので、なるべく日中は出歩きたくないから)
 
 うさぎの柄と、蜻蛉の柄と、どちらにしようか悩む。
 結局、うさぎの柄を選択。
 
 
 ここですんなり帰ればよかったのだが。
 実は、別の店にも、気になるものがあったのだ。
 
 で、既にすっかり暗くなっていたが、2軒目へと向かう。
 もう売れてしまったかな、と思いながら探してみると…、あった!
 ひそかにチェックしていた、猫の柄の浴衣。
 
 しかし、既に1枚(1着?)買ってしまったので、どうしよう…と一瞬迷った、けれど。
 ここで悪魔が、私の耳元に囁いた。
 
「他にも見ていた浴衣、これ(=猫)やそれ(=うさぎ)の倍ぐらいしたよ。もし、あれを買ったと仮定すれば…
 
 
 
 結局、その浴衣も私のものになりました…。
 …それにしても、何ちゅう言い訳じゃ(苦笑)。
 
 でも、でもですね。
 猫柄なんて、まさに、私のためにあるような絵柄じゃないですか!(それは言い過ぎ) それに、珍しいし。少なくとも、私が見つけたのは初めてです。
 …まぁ、ネタに走る女は可愛くないぞという意見もありますが。いいよ可愛くなくても。
 そして、糸で綴じ付けられたままだったのも、試着した人がいないという、何よりの証拠。やっぱり、私のために残っていてくれたのねー!!(いや、それは、あまり人気が無かったということの表れなのでは…? とは、考えないことにする。こういうところは、御都合主義の私。いいもん、私が気に入ったんだから。)
 
 
 * * * * * * * 
 
 後日、報告がてらに母へ葉書を出した。
 最後に、
「浴衣を買いました。柄は、うさぎと猫です。」
という文を添えて。
 
 
 …「2枚も買った」ということは、ぼやかした文面にしておきました。
 だって、ちょっと決まり悪いんやもーん。(こら)
 
 まぁ、いずれはわかることなんだけど(笑)。
 

毎日毎日暑いですが

2004年7月17日
 皆様いかがお過ごしでしょうか。
 体力の無い私は、案の定…などと言っていてはいけないのですが、へばっております。
 今年は全国的に、気温の上がり方が半端じゃなく厳しいようですね。
 
 で、これではいかん! と思い、体力精力ではない。(こらっ)を付けるべく、納豆を食べたり(@7月10日)、鰻を食べたり(@7月21日)しておりました。(※今日は23日です。)
 他には、浴衣を買ったりも。
 はい、例によって、季節ものに踊らされております。
 
 そのへんの話は、またぼちぼちと。

今年の私の、父の日

2004年6月30日
 そうそう、去る6月の第3日曜日は、父の日なのでした。
 …はい、結局何も出来ませんでした、私。

 うわーん、ごめんよー、父さん。
 忘れていたわけじゃないんだよー。
 ただ、しばらく前から、
「何にしようかな〜」
と、漫然と考えはしていたのだよ。(この、「漫然と」というあたりが、既に駄目駄目)
 で、あっという間に当日を迎えてしまった、というわけなんだよー! ふと気が付いた時には、もう直前で、間に合わなかったんだよー!!(最悪)

 その代わりにと言っては何だが、後日、絵葉書を送った。(後日なんかいな…)
 通信欄に、何やら言い訳がましいことを書いて。
「この度はごめんね、そのぶん、父さんの誕生日には何か考えるので」
とか何とか。
 うーん、見苦しいぞ、娘。
 そういえば、毎年毎年、6月(父の日)と父の誕生月には、
「えーっと、何にすればいいのかなぁ…」
と思い悩んでいるのだったな。いつも懲りずに同じことを繰り返している私って…。

 しかし、皆さん。(と、突然呼び掛けてみる)
 男の人への贈り物って、難しくないですか?
 ひとつは、私が女だから(異性だから)、そう感じるのかもしれないな。
 同性ならば、ある程度、察しは付きやすいし。…しかし、その結果が手作り果実酒(@今年の母の日)なので、我ながら、それもちょっとどうかと首を傾げるけれどな…。ま、それは今はさておくとして…、だから、母の日と母の誕生日には、自分独りで適宜考えて贈るのに、父の日と父の誕生日には、母に相談をして(それも、毎年である)、しかも、一緒に贈らないかという提案さえも持ち掛ける(!)、という不均衡が生じてしまうのである。…ごめんよ母さん。(今回、謝りっぱなしの私)
 でも、異性ということだけでなく、一般に(?)男の人への贈り物は、なかなか頭を悩ませると思うのだ。品選びの幅が狭いと言うか、そもそも選択肢自体が少ないとでも言おうか。男→女よりも女→男のほうが難しいと感じるのは、私だけではない筈だ。と思いたい。(そして同じく、女→女よりも男→男のほうが、とも言えそうだ。)
 それに加え、自分の好みがわりとはっきりしていて、欲しいものはさっさと自分で見繕い、趣味に合わないものはたとえ貰っても使わない、という人(=うちの父だ)へ贈る物を考えるのは、大変くたびれる。
 うーむ、どうしたものか。
 …既に今から、誕生日のことが思いやられるのであった。うぅ。

 別に、変な義務感に囚われているつもりは無いんだけどさ…。それが何より証拠には、今回、忘れていたも同然だし。
 …なんて、威張るところでは決してありませんよ、猫またぎさん!
ISBN:4840108919 文庫 大田垣 晴子 メディアファクトリー 2003/10 ¥714


レビュー

出版社/著者からの内容紹介
たとえばワタシは、ツユクサのような女。
「FRaU」大好評連載が、オールカラーで1冊の本になった!たとえば、ツユクサはしぶとい女、サザンカはファッション女、ヒマワリは宗教勧誘女など、大田垣ワールドを楽しみつつも、花のもつ強烈な個性におどろかされる、36編のイラスト&エッセイ。

花は美しいだけじゃない。目にとまらないような地味な花だってある。そんな花にも咲く意味はあるのだ。──(あとがきより)
花と女性の両方にそそがれる、あたたかく、キビシイ視線をぜひ、堪能してください。

内容(「BOOK」データベースより)
ツユクサはしぶとい女、サザンカはファッション女、ヒマワリは宗教勧誘女など、大田垣ワールドを楽しみつつも、花のもつ強烈な個性におどろかされる、36編のイラスト&エッセイ。


 
 解説より引用。
『この本は、一見すると色鮮やかな、ユーモア溢れるイラスト・エッセイだと思われがちだ。でも、じっくり読んでいくと、辛辣な女性観察が随所にちりばめられていることがわかってくる。(中略)太田垣さんが、この本で繰り返し強調しているのは、男女関係におけるオンナの駆け引きについてだ。(中略)じっくり読んでいくと、その観察の深さ、考察の切れ味に圧倒されてしまう。』

 男女間の駆け引きについての記述もさることながら、
「若さゆえの外見の勢いに頼らず、地道に努力する女は報われる」
という論調が、そこここに見られる。特に、ボケ、エニシダ、ムラサキシキブなどの項目で、その傾向が強い。著者自身、そう信じているのかな。(あるいは、執筆当時にはそう信じていた、ということか)
 ま、そうあってほしいと思いたいのは、わからないでもないけれど…(そういう気持ち、私にも多少はあるかもしれないからな。とはいえ、私が「努力」と呼べるほどのことをしているかと言えば、それは疑問だが…)。
 でも、若さやらをちゃっかりと活用して、美味しいところを掻っ攫ってゆく要領のいい女もいると思うよ〜。…なんてことは、言わないほうがいいんだろうか。

 あと、蛇足なんだけど、題名、女と書いてヒトと読ませるあたり、演歌っぽいと思うのは私だけ?

 ところで、本書には、れんげ草の項目が無い。
 れんげ草は、私にとって、特に好きな花のひとつだ。なので、ちょっと気になる。
 もしこの花を加えるならば、著者は一体、どんなふうに描くのだろう、と思った。

 * * * * * * * 

 昔々、
 「 手に取るな やはり野におけ れんげ草 」
という句を耳にしたことがある。
 れんげ草は、主に田畑の土手や休耕地に咲く花である。可愛さに惹かれて、ついつい摘んで持ち帰りたくなるが、水揚げがよくないので、残念だが萎れてしまう。私も幼い頃、それで何度か悲しい思いをした。以来、眺めるだけに改めた。
 改良(時に、改悪?)を重ねた結果、極めて人工的な環境にでも適応した…というより、もはや人の手を借りずには存在し得ない観賞用の植物とは違うのである。

 そんな性質になぞらえてだろうか。素朴な感じの、けれどある意味手強い部分もありそうな女の人(つまりは、イモねえちゃんってことか??)を気に掛ける男の人を諭す文言として、上記の句が時々利用される。
 一時の激情に絆されるなよ、もっと冷静になれ。今は、物珍しさが先走って、野暮ったいところさえも、新鮮な魅力として目に映っているだけだよ。たとえ手に入れたとて、目新しさなんか、遠からず失われる。耐久力のある観賞価値を持つのは、別の花なんじゃないか? 気紛れを起こすと、後々悔やむことになるぞ。 …なんていうふうに、ね。
 …まぁ、あわよくば蜜だけ吸ってやろうなんて魂胆もあるのでしょうかね。

 ともあれ、女の人を花になぞらえるなんてのは、昔からよくあることだ。たとえ話としては、かなり使い古されている部類だろう。
 だから、気の利いたことを言ったつもりで、自己満足に浸っているのは、はっきり言って見苦しい。この程度の陳腐な比喩で悦に入るとは…と、苦笑も漏れるというものである。
(そういうお前こそ気を付けろよ、と言い返されそうだが。)



 先日、近所のれんげ畑の辺りを久々に自転車で通りかかったところ、そこはもう水が張られ、田植えが行われていた。
 あぁそうだ、ここは元々、田圃だったんだ…。

 夏を迎える前に、れんげ草は、土に鋤き込まれて、影も形も消え失せる。
 けれど、自身の姿は無くしても、土壌の一部となって、農作物を育てる。
 目を見張るような即効性は得られないかもしれない。けれど、緩やかで穏やかであるがゆえに、確実に養分を行き渡らせる。劇的な効果も無い代わりに、危険や不自然さを伴うことも無い。

 それが緑肥の底力。
ISBN:4480037101 文庫 カタログハウス 筑摩書房 2002/02 ¥714


レビュー

内容(「BOOK」データベースより)
他人の悩みはいつの世も蜜の味。これは大正時代に新聞紙上で129人が相談した、ニッポンの悩みカタログだ。「芸者になるには声が悪い」「妻が処女でなかった」「娘の求婚者が醜いので断りたい」「お尻の大きい少年の僕」「何不自由ない暮らしだが空しい」―。どうかと思うあきれた悩み、身につまされる深刻な悩みがそれぞれに時代を映し出し、つい現代のわが身を省みる。

目次

清ク正シキ乙女ノ困惑
アドケナキ少年ノ苦悩
ソロソロオ年頃、ノ憂鬱
アァ青春ノ懊悩
進路ヲ決メルニアタッテノ混迷
縁談、結婚ニ関スル逡巡
結婚シナイカモシレナイ女ノ問題
困ッタ夫ニ対スル妻ノ閉口
妻ニ手コズル夫ノ煩悶
結婚生活ノ危機ニ際シテノ苦悩
昔ノ恋人ニ揺レ動ク心
主義主張ニ生キル人ノ苦悶
"バツイチ"ノ戸惑イ
道ナラヌ恋ノ悶エ
仕事、職場ニマツワル問題
性格ニツイテノ思惑
悩ミナキ人ノ難問
イササカ面目ニ欠ケル悩ミ



 この本の「案内人」を名乗って各項に一言差し挟む、太田敦子という女の人が、色々な書評で辛辣に批判されているけれど、別に、そんなに貶すほどのことでもないだろう。
 確かに、訳のわからない、的外れの茶々入れも散見されるが、でも、それとてさほど目障りとは感じられない。ま、そのぶんは巻末の解説(あの『もてない男』の人だよな…)で指摘されているから、それでよいのでは、と。←何だか、偉そうな物言いだが
 それよりも、大正時代の市井の人々の相談や、また、それを受けての記者の意見や回答の魅力は、上記の欠点を補って余りあるものだ、というふうに私は思う。

 ところで、自分がこの本に惹かれるのは何故なのか、他の理由も私なりに考えてみた。それが、以下の通り。
 大正時代といえば、今から80〜90年ほど前である。だから、投稿者が当時どんなに若かったとしても、現在は3桁に乗る歳だと見てよい。それも、長寿ならばの話。実際は、既に亡くなった方も多かろう。
 ということは。
 本書で紹介されている悩みは、全て、解決済の事柄なのだ。いや、「解決」ではなく「ご破算」とでも言い換えるべきか。円満な解決を見たかどうかは知らないのだから(*1)。
 しかし、いずれにせよ、個人単位での出来事なので、現在の世界には関連が無い。それでいて、現代と似通った部分も多々ある(*2)。
 つまり、共時性ゆえの生々しさは背負わずに済み、それでいて、共感はちゃっかり味わえる、というわけだ。
 それを考えると、大正時代という選択は、絶妙だなぁと思った。現代から、近過ぎも遠過ぎもしない、時間的な距離感(って、変な言葉かな?)が、すごくいい。
 …なんてのは、他の事においても「つかず離れず」を好みがちの、身勝手な私だから思うこと、なのだろうか???

(*1)本当は、解決が望ましいのだけど。
 しかし、積極的な働き掛けの無いまま、「なるようになれ」とばかりに放置されたことも少なくないだろう。まぁ、歳月の経過は、良くも悪くも風化を呼び込むから、それもひとつの方法なのかもしれないな…。
 とはいえ、「時の流れるままにどうにでも」なんていうのは、私は好みじゃないけどね。足掻くなり何なり、もっと自分で動かんかい! と思ってしまう。(←蛇足コメント。我が身の至らなさも省みずに…)

(*2)もっとも、この時代ならでは、と思わされるところもあるが。処女に対する異様なまでの執着とか、ね。その点では、現代に生まれてよかったと思ったよ…(苦笑)。

 ともかく、そういうわけで、身勝手な私は、時折この本の頁を捲りながら、ちびちびとやることもある。…あくまで「こともある」程度ですよー、誤解の無きよう。(←苦しい?)
 今の自分の身近な人の話題を、酒の席の肴として供するのは、時として危険である。だから、自分とは無関係の、しかも時間によって灰汁が抜け生々しさも消えた、大正時代の身の上相談ならば、誰を傷付けることもあるまい、と。そう考えて選んでいる部分も、ある。
(いや、この日記の中でも、知人を悪く言ってしまったことなんて、もう何遍もあるんだけどね…。だから、「傷付けることもあるまいだなんて、何を今更」と、自分で呆れもしているのだけどね…。
 それに第一、宴席の話題ではなく、単なる独り酒の供だし。つくづく暗い飲み方してるよなー、なんて突っ込みは堪忍して下さい、頼みます。自覚はありますから。)

散髪

2004年6月19日
 久々に、髪を切った。
 
 
 * * * * * * * 
 
 
 前回行った美容院では、その前の散髪からどれぐらい経つのかと問われ、
「そうですねー、8ヶ月ぐらいです」
と答えたら、
「マジっすか?」
と目を剥かれた。
 そんなに驚くようなことでもないと思うのだが。この回たまたまそうなっただけであって、いつもはもうちょっと間隔を詰めるし。
 ちなみに、いつもは半年に1回ぐらいの割合である。(それでも十分ずぼらか…。)
 
 
 まぁ、そんなことはさておくとして。
 その店では、新米と思しき店員さんが、客の待ち時間に他愛も無い話をして閑を紛らわそうとしてくれた。
 その計らい(多分、店主の考えによるものだろう)自体は、悪くないのだけど…。
 話の最中、新米さんはずっと、床に膝をついているのである。
 …うーむ。
 
 相手側の意図は、一応わかる。立ったままでは、顔の位置がどうしても、座っている客より上になる。だから、目線を合わすべく、高さを調節しているのだろう。
 …でもなぁ。
 別にそんなこと、全然気にしていないんだけど。少なくとも、私は。
 もっとも、私は小柄なので、普段の生活でも、人に見下ろされることに慣れている、というのもあるかもしれないが。しかし、上からの視線に怒りを覚える客なんて、いるのかなぁ?(いるとすれば、そちらのほうが変だと思う。)
 それよりも、地べた同然の床…それも、切り落とした髪の毛が散乱する中で、跪くような格好をされることで感じる心苦しさのほうが、大きいんだよな。
 そんな、昔の殿様と家来じゃないんだからさぁ、と言いたくもなるのである。
 …見下ろすことにそんなに抵抗があるのならば、軽量の折り畳み椅子か何かを使えばいいのに、と考えるのは私だけ?
 
 
 * * * * * * * 
 
 
 なんてことがあって、ここしばらく、美容院からは足が遠のいていたのだが(嘘。単に面倒くさがりなだけ)、今回のところでは、そういったこともなくてよかった。
 次もここにしようかな。
 
 
 そうそう、実は今回、前の散髪から、軽く9ヶ月以上が過ぎていたのだが、
「半年ぐらいですか?」
と聞かれたので、
「えぇ、まぁ」
と適当に誤魔化しておいた(笑)。やっぱり、言わぬが花か〜。
 しかし、(繰り返しになるが、)そんなに驚くようなことでもないと思うんだけどなー。私、髪の成長、遅いほうだし(苦髪楽爪って、私のための言葉か??)。それに、切る時には一気にばっさりとやって、さほど頻繁に通わずに済む髪形にしてもいるのだから、尚更。
 
 
 ところで。
 今回の散髪中に、
「パーマもカラーリングもなさらないのですか?」
と言われ、
「はい、まぁ、しようと思えばいつでも出来ますから…」
と答えた(↑ものぐさ丸出しの考え方…)ところ、

「そうですね。ま、人生まだまだ長いですからね〜

と返された。
 
 …そこまで言うほど、大仰なことなんかいな…。
 
 
 その店員さんによると、現代の日本でカラーリングをしている女の人は、70%であるらしい。
(中高年層も含むのかな? 成人女性全ての数字かどうかは知らない。)
 では、私は残りの30%だな。
 
『迷惑メール どんな文字』
 文字そのものによって迷惑になる、ということはないと思うけどな。
 あ、そうか。もしかしたら、迷惑メールを一目で判別出来るような文字を知りたくて検索を掛けたのかな。なるほどね。でも、そんな便利な見分け方なんて、あるんかいな。無さそうやけどな。
 過去の私の苦い経験を話すと…、
「今夜のおかずは、もうお決まりですか?」
と書かれたメールがあった。で、リンク先へ飛んで見たところ、何やら妖しげな肌色が蠢いていたので、
「何じゃこりゃぁ!!」
と驚き、すぐに立ち去った、ということがあった。
 ああいうのって、心の準備が出来ていないと、ぎょっとするよな…。あぁそうさ、わかってるよ、お惣菜サービスだと早とちりした私がアホなんやわっ!(逆上)
 
『男性 剥ぐ』
 これまた、題名引っ掛かりシリーズ。(シリーズ?)
 しかし、検索者が調べたかった事柄は、一体…。
 
『黒の下着 水着』
 黒の下着だと、水着っぽく見えなくもない、なーんて発想かな?
 しかし、さっきのから続くと、何やら妖しげだな…(苦笑)。
 
『女々しいとは』
 そうそう、「女々しい」って、女の人に対して(関して)は使えない言葉だと聞いたけど、そうなの?
 
『風邪薬はいつ飲めば』
 …知りません。多分、食後に飲めばよいのではないかと。それぞれの説明書を読んで服用して下さい。
 余談だが、私は長らく、食後のことを、食直後と間違って(混同して)いた。ややこしいよねー。
 
『人間の器って何』
 だから、知らんっちゅうねん。
 しかし何ですな、単語そのものではなく、妙ちくりんな語句で検索してくるんだなー、と変に感心(?)した。
 
『歯医者 嫌な患者』
 それは私。
 相変わらず、治療中に目を開けて、先生の顔を睨み付けて…じゃなかった、見ている。
 
『天気予報士の仕事』
 …は、天気予報だと思うけど。他にもあるかもしれないが、私は知らない。そして、占い師の管轄外だ、とも思う。
 しかし、またもや余談だが、私の知人は、ある時、天気予報の的中率の低さに怒り、
「あんなもん、どうせ当たらへんのやから、
『天気予
とでも名乗れ!
 それか、下駄でも放り上げて(蹴り上げて?)、
『天気占い
にしてしまえ!」
などと言っていた。しかし何も、そんなに言わんでも…。
 ん? それでは、天気関連も占い師の仕事になるのか?(こらこら)
 
『ひらがな 草書 崩し字』
『ハングル 崩し字』
『スミダ 丁寧語』
『韓国 誤字脱字の看板』
『韓国の色々』
 ふむ、韓国関連での検索だな。
 …はっ、しまった、韓国旅行のことを、すっかり忘れていたぞ!
 というわけで、自分のための備忘録として、無意味かもしれないがここに記しておこう。
 近いうちに←もう既に遅いっちゅうねん…、韓国日記を書く。書くのだ。
 もはや「日記」とちゃうけどさ。鮮度ゼロやん。
 
 あ、それから。
『大阪 柄の悪いとこ』
で検索してきた人もいたな…。嫌な気分だよ、全く。
 

靴紐の人

2004年6月13日
 その日私は、とある人に話し掛けるべく、その人の予定が終わるのを待っていた。
(親しい仲ではないけれど。)
 しかし彼は、出てきたと思ったら、すぐに私の横を通り過ぎた。
 ああ、行ってしまったか…と思った、のだけれど。
 
 ふと振り向くと、少し離れたところに、うずくまっている彼の背中が見えた。
 …もしかして、気分が悪いのか?!
 そんな心配もあって、思わず小走りに駆け寄った。
 けれど、それは私の早合点だったようだ。
 しゃがみ込んだ彼は、靴の甲に手を掛けていた。
 単に、靴紐を結び直しているだけだったのである。
 …そのおかげで、私は用件を伝えることが出来たのだけど。
 
 その後、
「お忙しいところ、お手数を掛けてしまって…、すみませんでした」
と言ったら、
「いえ、全然」
という答えが返って来た。そりゃそうか。
 というのも、彼はその時点で、当日の予定を既に終えていたからである。
 だから…、そこで口にするのに適切なのは、
「お忙しいところ」
ではなく、
「お疲れのところ」
という台詞だったのだ。
 それと、お礼の言葉も。引き留めたお詫びだけではなく。
 
 ああ、こういうのが、私の到らないところなんだな、と思い知らされた。
 
 しかし、自身の到らなさについての痛感は、今はさておくとして。
 ふと気になったのは、彼の行為である。
 しゃがみ込んだのは、本当に、靴紐を直すため(だけ)なのだろうか。
 もしかしたら、違う意味もあったのでは…? と。
 
 つまり、こういうことである。
 彼は、私の意図を、何となく感じ取った。
 けれど、確信までは持てない。
 なのでとりあえず、靴紐を結びながら待ち、様子を見てみよう。
 そこで私が近付いて来たら、その時に応じればよい。動くかどうかは、私に委ねる。
 要するに、靴紐結びは、当座の時間稼ぎも兼ねていた、ということだ。
(ちょっと、私の思い上がりのように聞こえるだろうか…。)
 
 
 もちろん、ご本人に尋ねたわけではなく、単なる私の推測ではあるが。
 でも、何だか当たっているような、そんな気もする。
(ここからは、そうだと仮定して話を進める。)
 そして、その判断に感謝することこそあれど、
「小狡い人だな」
なんてふうには、決して思わない。
 むしろ、
「気遣い上手な人なんだな」
と感じた。
 親しいわけではない相手に、話し掛けさせるだけの余裕を与え、それでいて、心苦しさは感じさせない。
 気を遣っていることを前面に押し出さない、という配慮。
 その上手さに、私は舌を巻いた。
 ひょっとすると、この程度のことは、人付き合い(というか人あしらい)に長じている人にとっては、朝飯前なのかもしれないが。
 
 でも、それでもよかった。それでも嬉しかった。
 
 
「そんなの所詮、計算ずくの行動じゃないか」
と鼻で笑う人もいるかもしれない。
 でもね。
 それで一体何が悪いのだろう、と私は思う。
 
 悪意の無い押し付けがましさなんかよりも、便宜としての礼儀正しさのほうがずっといい、ということもあるのだ。
 

おおー

2004年6月11日
出来た出来た〜。
…もしかして、知らなかったの、私だけ?

ま、でも、可能だからといって、今後もあまり活用はしないかもしれないけどね。
というのも、私の携帯からは、操作が面倒だから(苦笑)。

ちょっとしたテスト

2004年6月11日
携帯から更新。
…出来ているかな?

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